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ブックマーク / nakaii.hatenablog.com (3)

  • 吉本隆明『言語にとって美とはなにか』について - 翻訳論その他

    隆明の『言語にとって美とはなにか』は、若い頃なんとなく避けていたけれど、三十半ばを過ぎた頃、読んでみて、こんな面白いはないというくらい引き込まれた。噛めば噛むほど味が出てくるという気がする。 吉隆明の文章は、独得の用語と体系のなかで意味をもっている。どんな文章についても同じことがいえるとしても、『マス・イメージ論』のような書物に関して、とりわけそのことが注意されねばならない。むろんそれは書をよりよく理解するための注意書きではない。当は、私は書をまったく理解できないのだ。書を了解するためには吉氏の「体系」を受けいれなければならないが、その気がまるでないからである。 (柄谷行人「モダニティの骨格」『批評とポストモダン』) たしかに、その言葉の使い方は癖が強く、アクも強く、読みにくいったらありゃしない。けれど、不思議に、読んでいて楽しい。『源氏物語論』や『論註と喩』の文章の気

    吉本隆明『言語にとって美とはなにか』について - 翻訳論その他
  • 「作者の死」?――ロラン・バルト雑感その3 - 翻訳論その他

    ロラン・バルトが描いてみせた「作者の死」の光景には、作者の死体と並んで、批評家の死体が転がっている。 ひとたび「作者」が遠ざけられると、テクストを<解読する>という意図は、まったく無用になる。あるテクストにある「作者」をあてがうことは、そのテクストに歯止めをかけることであり、ある記号内容を与えることであり、エクリチュールを閉ざすことである。このような考え方は、批評にとって実に好都合である。そこで、批評は、作品の背後に「作者」(または、それと三位一体のもの、つまり社会、歴史、心理、自由)を発見することを重要な任務としたがる。「作者」が見出されれば、テクストは<説明>され、批評家は勝ったことになるのだ。したがって、「作者」の支配する時代が、歴史的に、「批評」の支配する時代でもあったことは少しも驚くにあたらないが、しかしまた批評が(たとえ新しい批評であっても)、今日、「作者」とともにゆさぶられて

    「作者の死」?――ロラン・バルト雑感その3 - 翻訳論その他
  • やはり「た」は「過去形」ではない――藤井貞和『日本語と時間』、熊倉千之『日本人の表現力と個性』、そしてトマス・ハリス『羊たちの沈黙』 - 翻訳論その他

    今から十年以上前、妊娠を機に会社を辞め、二人でフランスを一か月ほど旅行した。ニースを拠点にコートダジュールの観光名所をいくつか巡り、アルル、アヴィニョン、リヨンと北上し、最後の十日間ほど、パリで過ごした。一か月はあっという間だった。 帰国の前日、飛行機の中で読むを探すため、フォーラム・デ・アールのフナックに寄った。ミステリの文庫の棚に『Le silence des agneaux』があるのを見つけた。トマス・ハリスの小説『The silence of the lambs(羊たちの沈黙)』の仏語訳である。 この小説は、日語訳で一度読んだことがあったし、映画も観ている。だから途中で知らない言い回しや単語が出てきても、筋を追えなくなる心配はない。それでこれに決めた。 機中、読み始めてすぐ、ぎょっとなった。 Le département des Sciences du comporteme

    やはり「た」は「過去形」ではない――藤井貞和『日本語と時間』、熊倉千之『日本人の表現力と個性』、そしてトマス・ハリス『羊たちの沈黙』 - 翻訳論その他
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