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社会とコミュニケーションに関するislecapeのブックマーク (5)

  • 心過剰の差別理解・差別の文化 - U´Å`U

    「安心社会から信頼社会へ(感想)」より。 このは一冊かけて「人を信頼する人は愚か者か?」という問いを考えている。結論は、「そういう人が愚か者かどうかを決めるのは社会の型によって決まる」となっているのだが、その結論近くに出てくる議論が非常に興味深かったので紹介したい。 著者は文化というものを「共有された心の性質」として理解する方法と「社会のしくみ」として理解する方法のふたつがあると指摘する。そして前者でだけ文化を理解するやり方を「心過剰の文化理解」と呼び警鐘を鳴らす。 心過剰の文化理解の例として取りあげられているのが、差別である。心が行動の原因であるという直感的な前提に基づくなら「差別は偏見という心の性質が生み出す現象」として考えられる。たとえば日において男女差別がいまだに強く残っているのは、男尊女卑的な偏見を人々の間に植え付けてきた伝統的な日文化に原因があるということになる。しかし、

  • 「空気」を読み合う生きづらさ:日経ビジネスオンライン

    「気配」に「殺気」、「気分」と、日語には「空気」にかかわる言葉が多い。場の空気をキャッチする感性を涵養する文化だといえるが、翻って空気に支配されやすい環境ともいえる。 かつて、作家の山七平氏は著書『「空気」の研究』などで、日人の行動原理を「日教」によるものと定義し、その支配秩序を「空気」が握っていると喝破した。また、政治学者の丸山眞男氏は天皇制を「無責任の体系」と呼び、権力が消失する点を衝いた。これらは空気支配の証といっていいだろう。 「空気」は過去にも論じられていたものだ。だから、ここに来て「KY」(空気が読めない)という語が持ち出されたことに、ある世代より上ならば今更の感を覚えるかもしれない。 しかし、日人の原則が明らかにされたところで、「空気」の支配力が衰えたわけではない。むしろ、いま改めて「空気」が問題になっているということは、それなりの理由があるものと考えられる。 今回

    「空気」を読み合う生きづらさ:日経ビジネスオンライン
  • 受け手がセクハラだと受け取ったならセクハラ。んな馬鹿な。 - the deconstruKction of right

    http://d.hatena.ne.jp/cnkt/20090214/p1 http://d.hatena.ne.jp/antonian/20090214/1234623354 http://d.hatena.ne.jp/kentultra1/20090214/1234604147 http://d.hatena.ne.jp/Britty/20090214/p1 他、セクハラ問題が盛り上がっております。僕も某2ちゃんねるでネタ(すべてうそっぱちの冗談)でシモネタを言ったら炎上しました。しかし、このセクハラってどういうことなのか。そもそも「ハラスメント」ってどういうことなのだろうか。「受け手がセクハラだと受け取ったならセクハラ」ということは、その人が嫌といえばそうなるという、痴漢冤罪に非常に近いし、気にわなければ訴えてやるぞという脅しに非常に使えるのだ。 セクハラでもパワハラでも、「嫌

    islecape
    islecape 2009/02/15
    ハラスメントを男女間の問題に矮小化しているのでは。告発は誰であれ当然にできる。そのあとどのように止揚するかが問題。
  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    鼻歌をうたって、もうすぐ15才 中3息子は、たまに歌を歌っている。 決して格的なものではなく、ボリュームが少し大きくなった、鼻歌って程度だが。 ごくたまに家族で行くカラオケは「嫌い」だと言って、小学校5~6年生から行かなくなったが、居間での大きめの鼻歌は良いらしい。 その鼻歌の曲目は…

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  • 性は「社会的」なもの。だからこそそれは「社会的」に表現されなければならない - あままこのブログ

    前回の記事 立命館大学におけるセクハラ写真の撤去を支持する - 斜め上から目線 に対したくさんの反響が寄せられた。まぁ案の定殆どが批判だったが、一部には賛成してくれる意見もあった。そうだろう。そもそもそのような意見に賛成する人が多かったからこそ、大学だけでなく、学生自治会も、撤去に賛成したのだから。大学のみが撤去に賛成し、学生自治会も撤去に反対していたというのなら、そりゃあこの一件は「悪い権力によって学生たちの学問・表現の自由が侵害された!」とか言うことも出来るだろう。だが、学生自治会でもこの撤去が支持されたということは、学生たちもこのセクハラ写真の撤去を支持したということに他ならない。それを大学外部の人々の抗議によって覆そうというのは、はっきり言えば学校外の権力*1による大学自治の弾圧である。もし写真撤去を撤回したいと思うのならば、しなければならないことは、何故あの写真が学生ラウンジに飾

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