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2011年3月16日のブックマーク (2件)

  • 卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。 | 立教新座中学校・高等学校

    諸君らの研鑽の結果が、卒業の時を迎えた。その努力に、校教職員を代表して心より祝意を述べる。 また、今日までの諸君らを支えてくれた多くの人々に、生徒諸君とともに感謝を申し上げる。 とりわけ、強く、大きく、校の教育を支えてくれた保護者の皆さんに、祝意を申し上げるとともに、心からの御礼を申し上げたい。 未来に向かう晴れやかなこの時に、諸君に向かって小さなメッセージを残しておきたい。 このメッセージに、2週間前、「時に海を見よ」題し、配布予定の学校便りにも掲載した。その時私の脳裏に浮かんだ海は、真っ青な大海原であった。しかし、今、私の目に浮かぶのは、津波になって荒れ狂い、濁流と化し、数多の人命を奪い、憎んでも憎みきれない憎悪と嫌悪の海である。これから述べることは、あまりに甘く現実と離れた浪漫的まやかしに思えるかもしれない。私は躊躇した。しかし、私は今繰り広げられる悲惨な現実を前にして、どうして

    卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。 | 立教新座中学校・高等学校
  • 原子力は「神の領域」なのか、「人間の領域」なのか?

    福島第一原子力発電所の事態は、アメリカでは刻一刻と報道される中、現地の14日の月曜日から翌15日にかけては危機感が高まっています。日の失態を責める論調は皆無ですが、逆に「何事も周到に準備する日」で事故が起きたのだから「アメリカの原発も危険では?」という印象論が拡大しています。 こうした原発への恐怖の奥には人間の自然な生存能、危険回避の能があるわけですが、恐怖をコントロールできないという背景には二つの問題があるように思います。それは原子核反応に関する理解と、その表現における「ことば」という問題です。 例えば我々は「火」を使います。火を使って暖を取り、調理をしたり、その他のエネルギーにも使います。火は照明にも使われ、五輪の聖火など精神のシンボルにもなります。ですが、人間はサルとは違い、「火」を恐れることはしません。「火」とは「神の領域」ではなく「人間の領域」にあるものと信じて疑わないか