2015年の春のこと。 わたしはまだ青木杏樹ではなく、ただ趣味で小説を書いている人でした。毎日毎日、400字詰め原稿用紙を20枚ワンセットを消費しては、文房具屋に買いに行きました。帰宅するとまた明け方まで20枚消費し、日が高くなる頃には買い足しに行く日々が続きました。 小説とは応募するもの、小説とは他人に読んでもらうもの、という考えがわたしにはありませんでした。 わたしの中には小さな世界がごまんとあり、その世界で生きている人たちはたえず呼吸をしていて、畑を耕し、水を飲み、作物を売ったり買ったりしていました。ときには殺し合って世界は消えてしまうこともありました。そうした流動する世界線がいくつも走り、絡み、まじり、繰り返す、衝動にも近い意識と妄想がするすると動くものですから、歴史をつむぐように彼らの証をのちのちまで残せないものかと考えたのがどうもわたしの執筆の原点のようです。つまり応募する、評
知の巨人ウンベルト・エーコの、十余年にわたる講義録。 美と醜、虚構と陰謀、絶対と相対など、抽象的なテーマを俎上にのせ、フルカラーの図版を通して、具体的に迫ってゆく。ニュースやメディアで馴染んだネタから、ネットを駆使して追いかける必要のある美術作品まで、知的に振り回されるのが楽しい。 たっぷり知的興奮を味わったあと、見知ったはずの世界にある、見知らぬ裂け目に気づいたり、まるで異なる時代なのに、そこを貫く原理原則があったことを発見する。世界はもっとつながり合っているし、時代はもっと重なり合っている。人の営みは、かくも美しく、かくも醜いことを、あらためて知って驚く。 美とは何か たとえば、「美」について。 「美とは何か?」と概念で問われると、答えに窮する。イデアのように「美しさ」そのものを指し示されたとしても、それが(他の言葉でいう)何であるかなんて、分かるはずもない。せいぜい、わたしが美しいと
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