富永恭次陸軍中将フィリピンで陸軍の航空特攻を指揮。マッカーサー軍が迫ってくると、司令部の許可なしに側近と芸者とウィスキー瓶のみを載せて台湾に逃亡。天寿を全うする。 菅原道大陸軍中将陸軍特攻の中心だった第六航空軍の司令官。10代の少年を特攻隊を次々を送り出し、エンジン不調などで戻ってくると「卑怯者!俺も後で行く!」と殴り倒した。 敗戦で部下が自決をすすめたが「死ぬのだけが責任を取る事ではない」と逃げ回り、96歳で天寿を全うした。 倉澤清忠陸軍少佐菅原道大の部下で第六航空軍の参謀。特攻隊を次々と送り出し、機体不良で戻ってきた搭乗員を監禁して毎日毎日 「死ねないようないくじなしは特攻隊の面汚しだ。国賊だ!」と罵り殴りまくった。悔しさのあまり自殺したものもいる。 戦後は元特攻隊員の復讐を恐れてピストルを持ち歩き、寝る時は枕元に日本刀を置いて寝た。天寿を全うする。 玉井浅一海軍大佐フィリピンで特攻隊
鹿屋航空基地史料館は全国的に知られていないと思いますが、特攻隊の資料・海上自衛隊の歴史資料等の展示があり、特攻隊の資料展示は胸詰まる貴重な体験ができる施設ですので、是非一度は訪れていただきたいです。 鹿屋航空基地史料館に行くと、まず目に入るのが二式大型飛行艇12型。昭和15年当時世界一高性能の大型飛行艇だったそうです。米国国内に保管されていた世界に一機しかない当時の技術を駆使して作られた飛行機を、船の科学館の故笹川良一初代館長が資金援助と受け入れをおこない、その後海上自衛隊第1航空群が引き渡しを受け現在の場所へ展示されています。 特攻基地と言えば鹿児島知覧が有名で旧日本陸軍の航空基地でありますが、鹿屋市は旧日本海軍航空基地があり、太平洋戦争(第二次世界大戦)のとき特攻作戦の基地として使用され、多くの尊い命が飛び立って行きました。鹿屋航空基地から908名と串良航空基地から363名が飛び立って
本日、企画展の関連イベント「学芸員による関連講座」を開催します。講座内では企画展にて展示中の「特攻日記」の内容を詳しく紹介します。ご関心のございます方はぜひご参加ください。 会場:館内講話室 時間:時間:10:30~、14:30~ (約30分)
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