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吉本隆明と生に関するjiangmin-altのブックマーク (7)

  • アマチュア評論家「出羽守」さんへ | おごちゃんの雑文

    「出羽守」とは、「〜では」という表現をよく使う人を耶愉する言葉らしい。 出羽守 「アメリカでは」「日では」の類。類似なものには「農耕民族は」「狩猟民族は」とかってのもある。 まぁ自分のポジションを知りたいという欲求やら、隣の芝の色やら気になるのは人の常だし、問題点を分析したいという欲求は理解せんでもないけど、 「〜では」という分析より、「俺はどうする」の方がはるかに大事 なんだよ。 原因や背景の分析は、物事を成功に導くためには大切なものだ。だからこそ分析に意味がある。 でもさ。それは「何かをする」ということが前提にあって意味があることで、分析ばかりしていても単なる評論家になるだけだ。もちろん評論家になって身を立てたいということなら、それはそれで結構なんだけど、そんなに評論家ばかり増えてもらってもね。 というか、何らかの「実行」を背景にしない分析は、結局「何もしないのが最良」という結論を導

  • 意外とそのあたりに人生のアビス的増田 - finalventの日記

    ⇒■ 好きな女性に彼氏がいることを知ってしばらくショックから立ち直れない。 完膚なきまでに振られるならまだ諦めがつくし気持ちの切り替えもできるけど、 「増田さんが良ければ今後も一緒にいてほしい」とか言うからかえって辛い一方。 確か、ルイ・エモンの「白き処女地」だったか、マリアがなぜ婚約したかというと、彼が先に言ってくれたから、みたいのがあった。 吉隆明は80年代、女性には泥のようなニヒリズムがある、女性というのは男性を選択できないのではないか、とか、奇妙なことを言っていた。まだ、爺さん色気が残るころだったかもしれないし、それだ見ればトンデモネエなのだが、今でも自分にはぞっとした思いが残っている、というか。 それなりに青春から世間を見てきた。どうも女性のこの問題は、究極的に暗くて深い何かがありそうに思えてならない。 なぜその人を選んだの? にどこか奇妙に暗い深淵が潜んでいる。 それが人生

    意外とそのあたりに人生のアビス的増田 - finalventの日記
    jiangmin-alt
    jiangmin-alt 2008/07/02
    "吉本隆明は80年代、女性には泥のようなニヒリズムがある、女性というのは男性を選択できないのではないか、とか、奇妙なことを言っていた"
  • [書評]高学歴男性におくる弱腰矯正読本(須原一秀): 極東ブログ

    表題に釣られて読んだわけではない。表題が内容を反映していないとも言い難い。「高学歴男性におくる弱腰矯正読 男の解放と変性意識(須原一秀)」(参照)は奇妙なだった。面白かったかと言えば面白いのだが、一種の奇書の類でどう評価していいのかわからない困惑を覚える。いわゆる「トンデモ」かというと、取りあえずはそうではないというぎりぎりの臨界の内側にあるようでいて、変性意識(非日常で狂気に近い状態の意識)というテーマを扱う学問的フレームワークがほとんど独断的に無視(著者は喝破のつもりかもしれない)しているように見える点ではトンデモと言っていいだろう。初版日付は2000年の1月31日。7年前だ。この7年の意味はもしかするとまた別のエントリで書くかもしれないし、もしかすると察しの良いコメントを頂ける可能性もゼロでもないかもしれない。 専門スジにはトンデモでしょうと言ったものの、そのスジの人、つま

  • 閉じこもり恐怖症 - アンカテ

    私のように家族が閉じこもりでどこへも出ないとなると、いろいろな所に事情を話して出ていけない理由を説明しなくてはなりません。これが体の病気ならたいした説明はいらないけど、こころの問題で外出できないというのは、なかなか理解されなくて大変です。 「全然起きられないんですか。一日中寝てるんですか」 「たまには外出したほうが気晴らしになると思いますよ」 「そういうのは甘えじゃないですか」確かにこういうのは、自分や身近な人に経験がないと、なかなか理解するのは難しいのはわかります。自分だって、こうなる前に他の人から話を聞いたら、そう思うでしょう。相手がそれほど親しくない場合は、「医者が休ませたほうがいいと言ってます」でやれACだとかトラウマだとか難しい話をしないですましてしまいます。しかし、きちんと説明しないと納得してもらえなかったり、不信がられたりすることもあるので、それが悩みでした。 一時期は、そう

    閉じこもり恐怖症 - アンカテ
  • 国家と共同幻想と法と一般意志 - finalventの日記

    ま、たいしたこと書くわけでもないが。メモ。 吉的にいえば、共同幻想というのは発生してしまうもの。宗教と同じ。そしてそれが国家ということで、国家というのは宗教と同じと言ってよいことになる。 他方、いわゆる西洋的な民主主義の考えでは、国家は国民から貸借関係的に疎外されるのだが、それは結果論というか後付的な説明なのか? 国家の機能は一つには、社会から個人=市民を守ること。というか、個人=市民は国家がなければ社会に抹殺されかねない。その個人=市民というのは、むしろ、国家と共時的に発生しているとしかいえない。 超国家において市民は比喩以上には成立しない。つまり、世界市民的な概念は成立していない。その希求があるにせよ、国家から超国家への移行はその統合なり基盤としてはできていない。 逆の方向からいえば、超越的な正義、というものは成立しづらい。 ただ、国家の機能は、その内部の国民=市民からは、正義の希求

    国家と共同幻想と法と一般意志 - finalventの日記
  • 植草先生のことはわからんが その2 - finalventの日記

    承前⇒finalventの日記 - 植草先生のことはわからんが 昨晩、そして今朝方、また少し考えた。 死の乗り越えの欲望、というのだとして(バタイユ=ヘーゲル的)、少し違うか、と。 たとえば、私の前に若い女がいるとする(まあかつていたが)。 そこに手を出すことは容易ではない、というときの障壁の質の問題ではないか。 一般的には、その障壁は、女の側の意志の問題だとされる。悪い言い方をすると、そこで女が、意志と身体に分けられれば、商談のようなふうにして障壁を越えることができる。あるいは、愛情とか。たぶん、愛情とは別の商談のような契約性を持つとしても。 ところが。 たとえば痴漢という場合、そこに対象との女との間の障壁は、基的に、社会なり、慣習なり、掟なりであって、現代世界では、法=国家=共同幻想だろう。 つまり、性的な欲望=快感、あるいは、性的な欲望=二項関係というのではなく、そこには質的な三

    植草先生のことはわからんが その2 - finalventの日記
  • 教育基本法の改定に関心がない: 極東ブログ

    教育法の改定には私はまったくと言っていいほど関心がない。義務教育は市民生活を営む上でごく最低の知識の伝授さえあればいいし、それ以降は教育とは私学が基だと考えるので、国家がこうした問題に口を挟むということがまずもって理解できない。もともとこうした法というのは憲法と同じように、国家が義務教育を怠ることがないようにその権力行使を限定し、最低義務の遂行を規定するというだけでいい。そしてその点で現行の教育法で欠落しているとも思えない。愛国心云々については、もう勘弁してよという感じだ。愛国心を伝えるのは日国民の大人の倫理的な義務であり、そんなもの改まって伝えるようなものではない。各人の生き様を通して子供が察するように、そんなふうに大人が生きるだけの問題である。まして日の愛国心の根幹はその美観である。語るだけ野暮ってものだ。国家の品格とかも薄っぺらな冊子で売るんじゃねーよと思う。 ネットリ

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