世界のすべてが幻かもしれないが、それはそれで構わない、ということが、信仰にとって重要な点だ。 懐疑論的思考実験の多くが、「神の存在証明」と結びついていたことは、偶然ではない。 あらゆるものを疑い得る、ということは、わたしにとってわたしは信用ならない、ということだ。 デカルトが発見したコギトとは、世界の原点としての「わたし」ではない。そんなものなら、いくらでも疑い得る。 そうではなく、原点のように思考し疑う、そのわたしの矮小さ、寂しさだ。そのわたしが、広大な宇宙に一人ぼっちで、暗い夜の底に置き去りにされている姿だ。 そして、その小さな者が置き去りにされているということは、置き去りにされた「対象としての疑うわたし」を見る視線がある、ということだ。その視線とは、視覚以前にある眼差しだ。 世界のすべては幻かもしれないし、実際、多分幻だ。 本当の幻と、偽物の幻があるだけだ。わたしたちが、本当の嘘と嘘