フェミニズムあるいはフェミニストについてということかもしれないが、いつもぼんやりとだが思うことがある。私が何か「彼女」と議論をすることがあるとすれば、それは最後に私がフェミニストの敵として糾弾されて終わるのだろうというある確信である。私は女性の敵なのだろうし、私は原罪のようにそうなっているのではないか。つまりその理由は私が男であるからなのではないか。あるいは、何かクレドーを希うべきだろう。 ここで私は自分自身何を言いたいのかわからなくなる。「私は男として常に女性から罪人として糾弾されるに違いない」という奇妙な確信のようなものは何に由来するのだろうか。そして、それがどこかしら後ろめたく、ゆえに表面的に女性に迎合するような主張や行動をしているに違いない、となんとなく思う。そこから先、私は密かに、私はしかし「男」だろうか?と自問する。 現実はどうか。現実としては、フェミニズムやフェミニストと議論
『学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで』(参照)という書名からもわかるが、「あの花」と「ここさけ」という言葉を聞いてピンと来ない人はこの本を手に取らないかもしれない。逆に言えば、「めんま!」という言葉で泣き出してしまいそうな人は、なんの疑問もなくこの本を読み始めるだろう。それはそれでよいはずだが、手に取らずにいることには少し惜しい気がする。 説明するまでもない話もするのも気後れがする。でも、そこから始めたい。「あの花」というのは、『あの日みた花の名前を僕達はまだ知らない。』というアニメである。最近では『クズの本懐』(これについては別途書いてみたい気はしている)と同じく、フジテレビ系ノイタミナ枠の1クール11話の作品で、東北震災のあった2011年の4月から6月に放映された。死を悼むことを見つけ出すという点で、その時期的な重なり感が微妙に受け手にもあったかもしれない。その後は
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く