2月は卒業式の季節である。ところで卒業式という儀式にはどんな意味があるのだろう。それはおそらく悲しいことなのだろう。葬式にしても卒業式にしても悲しいことには常にまんじゅうがつきものである。人はそのまんじゅうの甘さによって悲しみを忘れるのだろうか。卒業式のまんじゅうといえば私はいつも思い出すことがある。京都大学の卒業式にもまんじゅうが配られた。確か卒業証書と一緒に文学部の事務室だったかで配っていたはずだ。それは京都の祝い菓子の老舗、老松のまんじゅうだった。私はそれを「後で喰おう」と思って置いていたら、なんと父や母が喰っていたのである。父は「やっぱり京大のまんじゅうはうまい」と語ったのである。そのまんじゅうを喰うべき正当な権利者である私は、ひとつも京大の卒業まんじゅうを喰うことができなかったのだ。今でもそのことは私にとって痛恨の出来事である。京都大学を卒業したことの中で唯一の悔いが残ってること