以前にも書いたが、民族意識というのは、子孫のなかに自己の永世を見るという、いわば輪廻思想の変形みたいなものだが、それが民族として国家に集約されれば、永世を見たいと願う死者たちは民族の国に招魂されてしまうというのは、そう考えてみると、ごく普通の論理ではあるな(ちなみに私自身はこうした宗教観は持っていない、というか、一種のモデルとしてそう述べているだけ)。 こうしてみると、マックス・ウェーバーが方法論的に宗教社会学において来世意識のモデルを置いたというのは、やはり賢いモデルの立て方というのはある。ただ、ウェーバーにとって民族というのはそれほど相対化されていなかったようには見えるが。 このモデルと一神教については、ユダヤ教のようにもっと直接的に子孫の繁栄と約束された土地(国家)という幻想における、時間的な証人のような意味が強いのだろう。その意味で、日本の「万世一系」とやらの天皇もその点からは似た