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2012年3月2日のブックマーク (2件)

  • ローマ賞の周辺=ドビュッシーの場合=

    2002年12月維持会ニュースより ローマ賞の周辺=ドビュッシーの場合= 松下 俊行(Fl) フランスに於ける作曲家の登龍門として、ベルリオーズ・グノー・ビゼー・ドビュッシー・イベールなど数多の作曲家の伝記に必ず現れる「ローマ大賞」受賞。その一方でサン=サーンスやラヴェル・フォーレそしてプーランクなど受賞を果たさずとも大成していった一群の作曲家もいる。その賞の意味と、受賞者の栄光と悲惨との実態を、ドビュッシーの大賞受賞の周辺から見てみたい。 *落日の栄光=ある受賞者の末路= この稿を書くにあたり僕が最初に行なった事は、乱雑極まりない書庫の中から既に絶版になったある文庫を掘り出すという作業だった。バルザックの『従兄弟ポンス』……姉妹編の傑作『従姉妹ベット』に隠れ、知名度と内容に於いてやや劣るが1847年に書かれたその中編小説は、とある貧しき老音楽家を主人公としている。舞台は1844年10月

    junshoku-159
    junshoku-159 2012/03/02
    18世紀第4四半期の頃のイタリア音楽なんてのは、もはや抜け殻という表現さえも褒め言葉になるくらいスカスカだったからなあ。
  • 「室町幕府はなかった」 - 我が九条

    1336年、足利直義らは建武式目を制定し、新たな武家政権の発足を宣言した。1338年には足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられた。尊氏は後醍醐天皇への対策から京都に武家政権を樹立する事が不可避であった。尊氏は二条万里小路に屋敷を構え、足利直義は三条坊門に屋敷を構えた。足利義詮は三条坊門万里小路に屋敷を構え、足利義満にいたってはじめて北小路室町に屋敷を構える事になる。後に義満は室町第を足利義持に譲って自らは北山殿を構え、そこを政庁とする。義持は父の死後三条坊門に屋敷を構え、足利義量は室町第に入るが、ほどなく死去する。足利義教・足利義勝は室町第に、足利義政は当初は怨霊を恐れて養育されていた烏丸資任の高倉第にいたが、長ずるに従い、室町第に移り、晩年は東山殿で過ごした。義稙は三条坊門に始まり、放生津、一乗谷、山口と動き、京都に戻った後に堺から阿波国撫養で死去している。足利義澄は京都時代どこにいたかはしかと

    「室町幕府はなかった」 - 我が九条
    junshoku-159
    junshoku-159 2012/03/02
    そして江戸幕府はなかった...へと続くのか!?