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ブックマーク / p-shirokuma.hatenadiary.com (8)

  • 『使えない個性は、要らない個性。』 - シロクマの屑籠

    21世紀が始まった頃、個性がやたらと礼賛された時期があった。 『ゆとり教育』。 『ナンバーワンよりオンリーワン』。 『自分らしさ』。 『世界にひとつだけの花』。 【個性的であること=かけがえのないこと】という夢いっぱいの観念を、老若男女を問わず、誰もが礼賛するような空気が、日じゅうに蔓延していた時期を、あなたも覚えている筈だ。 個性を礼賛した結果がこれだよ! その結果、何が起こったのか? 個性を礼賛し、個性を追求し、“自分らしさ”へと突き進んだ青少年の大半は、個性を賞賛されることもないまま、自分は個性的だという不良債権と化した自意識を胸に、平凡な日常をのたうち回っている。自分の個性が生かせない仕事はしたくない・働いたら負けだと思っている・自分の個性を大事にしてくれない社会が悪い・自分の才能を見抜けない上司が悪いetc…。そういう怨嗟をオーラのようにまといながら、心のどこかで“当の自分”

    『使えない個性は、要らない個性。』 - シロクマの屑籠
  • twitterは、スルーされていても擬似承認が得られる凄いツールである----誤配と承認 - シロクマの屑籠

    http://blog.livedoor.jp/kensuu/archives/50497166.html http://wp.fujikake.net/archives/205 上記リンク先で挙げられている放電コミュニケーション、に関する指摘は妥当なものだと思う。自分が傷つくリスクや最小化しつつも、承認体験はゲットしておきたい人が、少なくとも日のインターネット界隈には沢山存在していると思う。そして勿論、twitterというコミュニケーションツールもまた、これまでのインターネットコミュニケーションツールと同様、そういったローリスクな承認欲求の備給の場として多くの人に愛用されつつあるようにみえる。 しかし、このtwitterには、blogやmixiなどといった従来の多くのコミュニケーションツールと比較して特別に優れた点があると思う。というのも、blogやmixiとは異なり、twitter

    twitterは、スルーされていても擬似承認が得られる凄いツールである----誤配と承認 - シロクマの屑籠
  • 適度にdisられるのは乾布摩擦のようなもの - シロクマの屑籠(汎適所属)

    世の中には、言及対象を非難したり、アホだの馬鹿だの罵ってさえいれば言及対象にダメージが最低でも1ぐらいは通ると思っている人があるかもしれない。少なくとも、何がしかの妨げになるんじゃないか、何もしないよりは嫌がらせになるんじゃないか、というような考え方である。 しかし、実際はどうだろう?下手くそなdis*1、論点をそっちのけに感情をむき出しにしているだけのdis、などなどを繰り返したところで、相手を喜ばせるだけ、ということもあるのではないだろうか。あまつさえ、相手の立場を強化する良いサンプルとして陳列されてしまうことさえ考えられる。歯茎をむき出しにしたdisりが自らの身を焼くリスクは高いにも関わらず、である。 少なくとも私は、そういうタイプの適度に脆弱なdis、要所を弁えぬままに感情の発散や不安の防衛に終始する烏合のdisのうちに、乾布摩擦のような効果を感じることがある。自分自身のエントリを

    適度にdisられるのは乾布摩擦のようなもの - シロクマの屑籠(汎適所属)
  • 知識としての脱オタは普及し尽くした。 - シロクマの屑籠

    若年世代におけるサバイブ感覚の強さとコミュニケーション志向に関連して、脱オタについても少し。 そういえば、コミュニケーションスキル/スペック改善という意味の脱オタが現れつつあったのも(現実を生き延びろという気分と、コミュニケーションの重要性が脚光を浴びつつあった)90年代後半だった。昔は秋葉原を行きかうオタクの服装は“なるほどオタクだ”と思わせるものが多かったけれど、最近はそういう人も大分少なくなってきた。2006年頃には、秋葉原もコミケもすっかり「キモオタの相対的減少」を呈し、とりわけ若年コミケ参加者においては審美性を疎かにしている参加者がいよいよ少数派になってきている。2000年頃のコミケでは考えられなかったことだが、ここ数年の間に若年オタク層の処世術はかなり変化してきており、若年オタクを中心にコミュニケーションにリソースを振り分けた人間が着実に増えていると思う。二十代後半〜三十代前半

    知識としての脱オタは普及し尽くした。 - シロクマの屑籠
  • あのとき僕は「日本のアニメは世界一だよねっ!」と頷いてあげるべきだったのだ - シロクマの屑籠

    数年前のその日、僕はオタク達の集うあるオフ会に出席していた。まだ居心地の良かった秋葉原にメイド喫茶ができるか出来ないかぐらいの時期だったと思う。初対面の人も少なくないオフ会において、臆病な触覚を伸ばしあってお互いに接点を見出すにはアニメやゲームの話題に限る。酒宴の場は、(オタクオフ会にはしばしばありがちなことだが)オタク趣味に関する話題で多いに盛り上がったのだった。 僕が彼に気づいたのは、宴たけなわの一次会の終わり頃のことだった。 「今では、コミケの会場までわざわざ同人誌を買いに来る外国人もいるんですよ。」 「…ですから、日の萌えは日発の文化として、大きく羽ばたいていくんです。」 その甲高い声*1は、遠いテーブルにいてもよく聞こえてきて、勿論耳障りなものだった。アルコールでほのかに赤くなりながらも目を輝かせ、いかにオタク文化が優れているのか、いかに将来性あるものなのかを初対面のオタク

    あのとき僕は「日本のアニメは世界一だよねっ!」と頷いてあげるべきだったのだ - シロクマの屑籠
  • 君がキモオタと言われるか否かは、君がコミケに通っているか否かとは関係ない - シロクマの屑籠

    脱オタ、という言葉はちょっとややこしい。 なぜなら、この言葉は一見すると「オタク趣味を放棄すること」を指しているようにしかみえないからだ。しかし現実には、「脱オタ」という言葉はオタクファッションを改善することだったり、コミュニケーションスキル/スペックを改善させることだったりする場合が多い。*1 秋葉原の大通りを行きかう男性オタク達の服装がまだまだ十分にみすぼらしかった2000年頃において、ピンバッジだらけのリュックを普通のバッグに変えてみる・穴の開いたTシャツをやめてみる・風呂に入る・無精ひげを剃る・電車の中で奇声を発しながらエロゲートークをしない、etc...これらのちょっとした気配りはオタ個人の社会適応を改善するうえでそれなり意義があった(逆に、それらさえおざなりにしていたオタクが多かったとも言える!)。総武線の電車のなかで冷笑される可能性を、脱オタメソッドはある程度減弱させる効果を

    君がキモオタと言われるか否かは、君がコミケに通っているか否かとは関係ない - シロクマの屑籠
  • いじめる側のメリットが大きくコストが少ない限り、いじめ発生は不可避だろう - シロクマの屑籠

    いじめについて色々な事がネットで書かれているのをみると、「誰が悪い奴か」「不可避なことか否か」「いじめられた側/いじめる側はどうすべきか」について書かれているものが多い。また、いじめの多発する現状を異常事態と騒ぐ人も多いようだ。しかし、「いじめの機能を解剖」してみようとか「いじめを通していじめる側が獲得するメリット/コスト」について書かれたテキストは数があまり多くない。 確かにいじめは憂うべき事態なのは分かるけど、ここまで全国津々浦々の中学校に蔓延している以上、いじめを非機能的異常現象として捉えることはもはや適切ではないだろう。私が中学生だった十数年前以来、いじめの構造はほぼ一貫して思春期前期〜中期の学校に存在していたと思う*1。現代の思春期の子にとって、実はいじめは「機能的なもの」で「個人の適応を促進させるもの」で「抑止力が働かない限り必然的にエスカレートするもの」ではないだろうか?いじ

    いじめる側のメリットが大きくコストが少ない限り、いじめ発生は不可避だろう - シロクマの屑籠
  • オタク趣味を捨てずに結婚する方法の模索 - シロクマの屑籠

    http://guideline.livedoor.biz/archives/50671854.html 結婚しようとしているオタク趣味愛好家の人にとって、これは大きな課題と言わざるを得ない。結婚したはいいけれど、嫁さんに合わせてエロゲーもフィギュアも全部捨てて無趣味になってしまった、となれば結婚生活は砂漠のようになってしまいかねない。子育てに手間暇と金がかかる事を思えば、趣味のある程度の後退は致し方ないだろうけど、“嫁さんの趣味”なるものによって自分が愛好しているモノを刈り込まれるのはやりきれない。まして自分自身の趣味に占めるオタ趣味の割合が大きな人の場合、趣味を刈り込まれたら何も残らなくなってしまって、禿げ山のような男になってしまうだろう(そして、そんな男に嫁さんはうんざりするし、あなた自身もうんざりしてしまう!)。 いい加減結婚年齢にさしかかりつつある俺個人にとっても、「どうやって結

    オタク趣味を捨てずに結婚する方法の模索 - シロクマの屑籠
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