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東浩紀に関するkahkiのブックマーク (5)

  • 『戦後的思考』加藤典洋著 講談社文芸文庫版の、 東浩紀氏の解説「政治のなかの文学の場所」について。|原 正樹

    私のFacebook上の友人には、左派リベラル政治的立ち位置の人が多い。加藤氏の生前からそうだったのだが、亡くなられた後、私が加藤氏の著書の感想を投稿しても「左派リベラル友人知人」からの反応が薄い。そういう人から見ると、どうも加藤典洋氏は、反動的保守的知識人ということになっているらしい。そういう評価になってしまった事情、それがいかに誤った、残念な、的外れな評価であるか、そして、加藤氏の論の核にあるものがどういうことかを、東浩紀氏が、このうえなく分かりやすく書いてくれています。 kindle版『戦後的思想』には、東氏の解説が収録されていなかったので、中古でしか手に入らなくなっている講談社文芸文庫版を購入して、東氏の解説だけをさきほど読んだのですが、これが、予想を超えて素晴らしい文章でした。涙が出てきました。まさに、こういうことを僕は言いたかったのだ、ということを、東氏がもののみごとな文章

    『戦後的思考』加藤典洋著 講談社文芸文庫版の、 東浩紀氏の解説「政治のなかの文学の場所」について。|原 正樹
  • 【解説】東浩紀著『ゲンロン0 観光客の哲学』第3回 - 安吾のハッカ煙草

    第1回→https://plume1414.hatenablog.com/entry/2018/12/19/095017 第2回→https://plume1414.hatenablog.com/entry/2018/12/22/141626 第2回の記事では、「二十一世紀は観光客の時代になるかもしれない。しかし、実学の研究ではその質的な議論ができていない。だから、観光客というものを哲学的に考える必要がある」というような内容を書いていった。 さて、その記事で、僕が最後に書いたことを覚えておられるだろうか。……観光客というものを哲学的に考えねばならない。しかし、そうしようとすると、ひとつの壁にぶつかることになる。……そういうようなことを僕は書いた。そこで今回の記事では、すばり、「その壁とはなんなのか」という話だ。 結論から先に言ってしまおう、その壁の正体とは「カール・シュミットの『友敵理論

    【解説】東浩紀著『ゲンロン0 観光客の哲学』第3回 - 安吾のハッカ煙草
  • 【解説】東浩紀著『ゲンロン0 観光客の哲学』第2回 - 安吾のハッカ煙草

    第1回はこちらです。 https://plume1414.hatenablog.com/entry/2018/12/19/095017 第2回である今回からは、いよいよ内容に入っていく。この記事で扱う章は「第1章 観光」だ。次は第2章、そして第3章、第4章と続けていき、全部で5つの記事を予定している。(5,6,7章については、記事では取り扱わない。あくまで中核的な議論は1〜4章で行われているからである。むしろ5,6,7章は、こちらで変に解説を行わず、読者自身が手にとって読んでいただいたほうが良いと考えている。特に第7章はかなり面白い) まず、はじめに。これは前回記事でも明示したことであり、今回もまた繰り返すが、この記事を読んだからといって書の内容をすべて理解したことにはならない。これら一連の記事はあくまで「『ゲンロン0 』に興味をもってもらう」「思想・哲学に興味をもってもらう」「知識の

    【解説】東浩紀著『ゲンロン0 観光客の哲学』第2回 - 安吾のハッカ煙草
  • 【解説】東浩紀著『ゲンロン0 観光客の哲学』 第1回 - 安吾のハッカ煙草

    ・『ゲンロン0 』 ここからの一連の記事では、東浩紀著『ゲンロン0 観光客の哲学』を解説していく。ここで書いていくのはいわゆる「ダイジェスト版」であり、東浩紀氏や書に対する批評を展開するものではない。純粋に、シンプルに、『ゲンロン0』という書籍がどういう内容のものであるのかを書いていくつもりだ。 記事の想定読者としては、「『ゲンロン0』を読んでみたいけれど、いまいちどんな内容だか分からない」という人や、「思想や哲学というものに漠然と興味がある」という人、「もうすでにそれを読み終えているが、知識を簡単に整理してみたい」という人などを考えている。それらの層の方々に、できる限りわかりやすく、書の魅力を伝えていきたい。この一連の記事を入門として、より多くの方がこの書籍を手に取っていただければ幸いだ。 (※なお、『ゲンロン0 観光客の哲学』では、Web上に特設ページなるものが用意されており、著者

    【解説】東浩紀著『ゲンロン0 観光客の哲学』 第1回 - 安吾のハッカ煙草
  • 中井英夫『虚無への供物』、東浩紀「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」 - 連想読書日記

    三大奇書のひとつ、中井英夫の長編『虚無への供物』を読んだのはずいぶんと前のことになる。氷沼家におこるいくつもの不審な死とその謎とき。ペダンティックな推理合戦や意外な真相など魅力は多いが、ぼくにとってもっとも印象的だったのは、ある人物が推理を繰り広げるその動機だった。 単なる偶然による事故死か、計画的な犯行か。 「どちらが人間世界にふさわしい出来事かといえば、むしろどこかに凶悪な殺人者がいて、計画的な放火なり死体遺棄なりをしたと解釈したほうが まだしも救われる、まだしもそのほうが人間世界の出来事といえるじゃないか。(中略)人間世界の名誉のために、犯罪だと断定したいくらいだ。」 「氷沼家のおびただしい死人たちが、無意味な死をとげたと考えるよりは、まだしも血みどろな殺人で死んだと考えたほうがまだましだということだ。聖母の園の事件もそうだが、もし犯人がいないというなら、ぜひとも創らなくちゃいけ

    中井英夫『虚無への供物』、東浩紀「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」 - 連想読書日記
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