2020-08-03 15:12 日本がこれほど強大になったのは「日本人の優れた心構え、精神のおかげだ」=中国 中国メディアは、アジアの中ではいち早く日本が先進国の仲間入りを果たした「日本人の心構え」が関係していると伝えた。(イメージ写真提供:123RF)
倭からの中国通使が途絶えた事情を示す出来事が二つある。 その一は南齊書・東南夷傳に載る建元元年(479年)における加羅国王・荷知(かち)の南齊遣使の事実だ。この記事に加羅国王・荷知の使いが入朝し、輔国《ほこく》将軍(南齊を補佐する将軍・春野註)加羅国王の称号を授けられている事が見える。 これは加羅国王の名が中国の史書に見えたはじめであり、又終わりである。この加羅国王の正体は、全く捉える事ができないが、どうであろうとも、加羅の一国が、独自の外交を試みたものであることは否定されない。倭の支配が強い間は、このような通交は行おうとしても許されない事であろうから、この年の 遣使は加羅国の独立性の成長と、倭国の統制力の衰弱を示すものである。 その二は書紀の顯宗《けんぞう》天皇三年(487年)の記事である。それにはこうある。 「この年、紀生磐宿禰《きのおいわのすくね》は任那をまたがり支配していた。高句麗
没年:顕宗3(487) 生年:生年不詳 5世紀末ごろ安羅(伽耶の一国,韓国慶尚南道咸安)で活躍した倭人。顕宗軍3(487)年,紀生磐が任那(安羅)を拠点に三韓の王になろうとしたとき,生磐と共謀した。生磐と那奇他らは百済の適莫爾解を殺し,帯山城(全羅北道泰仁)を築いた。しかし百済王が派遣した軍に攻められ,生磐は城を放棄し,那奇他は殺害された。『日本書紀』に引用される『百済本記』が加不至費直(河内直),「韓腹」の佐魯麻都,阿賢移那斯らの祖先と伝える那干陀甲背,那奇他甲背はこの佐魯那奇他と同一人であり,年代的に3人の祖父であると考えられる。<参考文献>田中俊明『大伽耶連盟の興亡と「任那」』 (平野卓治)
西漢氏の支族で朝鮮半島の伽耶地方から河内国に渡来してきた氏族。『百済本紀』に安羅日本府の倭臣として「加不至費直」という人物を記している。河内氏は5世紀末ごろに帰化/渡来し、ヤマト王権に軍事・外交面で仕えたと考えられている。飛鳥時代後期(7世紀後半)には河内国に河内寺(現在の東大阪市)を建立。伽藍(がらん)配置については北から南に一直線に講堂、金堂、塔、中門が並ぶ「四天王寺式」だったと推測されている。本拠地は河内国河内郡。 河内源氏(信濃河内氏)[編集] 河内源氏初代源頼信の子、源頼任(河内頼任)[2]が父の河内守に由来して称した氏族で、本拠地は信濃国。 河内源氏(武蔵河内氏)[編集] 河内源氏4代源義忠の子、源経国(河内経国)が父の河内守に由来して称した河内源太という名から起こった1代限りの氏。本拠地は武蔵国児玉郡。後に稲沢氏と改称した。 甲斐源氏河内氏[編集] 甲斐源氏の一族。本拠とした
生年:生没年不詳 延那斯とも書く。6世紀中ごろの倭系の安羅(伽耶の一国,韓国慶尚南道咸安)の人。加不至費直(河内直),韓人との二世である佐魯麻都らと共に佐魯那奇他(那奇他甲背)を共通の祖先とする。佐魯麻都とは常に連帯して行動しており,ふたりは兄弟だった可能性がある。新羅に内通して百済王(聖明王)の招集に応じなかった。このため任那復興の妨げだという理由で百済王は,その排斥を欽明天皇に求めた。安羅に置かれたいわゆる「任那日本府」の執事として実務を担当し,佐魯麻都と共に親新羅,反百済の立場に立って安羅と新羅との連携を推進するうえで主導的な役割を果たした。<参考文献>田中俊明『大伽耶連盟の興亡と「任那」』 (平野卓治)
生年:生没年不詳 6世紀中ごろの倭系の安羅(伽耶の一国,韓国慶尚南道咸安)の人。いわゆる「任那日本府」の執事。加不至費直(河内直),阿賢移那斯らと共に佐魯那奇他(那奇他甲背)を祖先とし,倭人を父,安羅の女性を母に持つ「韓腹」すなわち韓人との二世。卿(大臣),臣,執事で構成された倭の使臣団「任那日本府」で,実務担当である執事として力を持ち,阿賢移那斯らと共に主導的役割を果たした。欽明天皇2(541)年,加不至費直らと新羅と通じて百済王(聖明王)の招集に応じなかったため,百済王から叱責された。同4年,百済王は彼らの召喚を欽明天皇に求め,翌年には佐魯麻都らが任那復興を妨げていると報告している。新羅の官位である奈麻の衣冠を身につけた親新羅,反百済の中心人物として,東進する百済から安羅を守るために新羅との連携を推進した。<参考文献>田中俊明『大伽耶連盟の興亡と「任那」』 (平野卓治)
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く