この争いの対象地である己汶《こもん》は、今西博士が詳しく検証したごとく基汶川の流域で、今の蟾津江《そむじんがん》流域(釜山西方100キロの海岸沿いの平野)にあたる。 全羅南道(韓半島南西部の海岸に近い地域)の西部の四縣割譲に続いて、その東部にあたる已汶・帯沙を失うと加羅には今の釜山《ふざん》周辺の100キロ四方ほどの領地が残されるのみとなり、加羅の王たちが反抗的になるのは当然と思われる。 (春野註・以下は書紀・継体天皇八年の條に末松氏が解釈を加味したした文章である) 514年三月、伴跛国《はへこく》を中心とする加羅諸国は子呑・帯沙の多くの山々に城を築き、ノロシをあげる場所と兵糧を置く倉庫を置いて日本《やまと》に備えた。また、新羅よりの今の慶尚北道のあたりにも城を築き渡して、新羅を攻めた。 (続いて、書紀、継体天皇九年の條を末松氏が解釈する) 515年春二月、百済の使者、文貴《もんくい》将軍
![カルカヤの歌 、磐井の反乱伝説 - 121 任那興亡史](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/e500396bbfea3bd3ba482b299d630b907acef648/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fsbo.syosetu.com%2Fn2508o%2Ftwitter.png)