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物語に関するkamikusaのブックマーク (8)

  • ナレーションおよび物語分析の再考 - 感情レヴュー

    ここのところずっと、ライトノベル/ジャンル小説の作家――とくに冲方丁と西尾維新――を読んでいた。それとは別に、文学におけるナレーションの効用についても考えていたのだけれど、彼らの作品からいくつか得るところがあった。 昔からの変わりばえのしないナレーションを用いた作品には飽きを感じていたし(内容は新奇なものでも、その皮袋であるナレーションが古めかしいものの多いこと!)、従来のナレーション分析にも疑問というか限界を感じているところだった。 ではどうあるべきなのか。結論からいえば、ナレーションは、従来のように、(物語に対して)メタレベルに設定するのではなく、物語(キャラクターとプロット)とシームレスに繋がっている――言い換えればナレーション・キャラクター・プロットが各操作軸として重層化されている――ととらえるべきである。どういうことか。 たとえば、冲方丁は、ナレーションとキャラクター(およびプロ

    ナレーションおよび物語分析の再考 - 感情レヴュー
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    水風呂のすゝめ 毎日めちゃくちゃに暑い。 ここ数年「およげ!たいやきくん」のように昼間は太陽とオフィスビルとアスファルトの三方向から押し寄せる35℃オーバーの熱に挟まれ、夜になっても最低気温が27℃くらいまでしか下がらない。そんな理不尽な東京鍋の中の暮らしが毎年のことにな…

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    水風呂のすゝめ 毎日めちゃくちゃに暑い。 ここ数年「およげ!たいやきくん」のように昼間は太陽とオフィスビルとアスファルトの三方向から押し寄せる35℃オーバーの熱に挟まれ、夜になっても最低気温が27℃くらいまでしか下がらない。そんな理不尽な東京鍋の中の暮らしが毎年のことにな…

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  • Passepied: 『もっけ』が終わるとき

    森田季節氏から原稿をいただきました。 ************************************* テレビ版の『もっけ』を見ていて、あらためてこの作品の特徴がはっきりと出た気がした。以下、つらつらと書くのは至極当然のことだ。つまり、『もっけ』の主題は子供が(とくに母)親から切り離され、外界に出て行くものだということを述べる。 まず、親といっても『もっけ』には、主人公の二人の娘、瑞生・静流の両親はあまり出てこない。これは設定上、祖父母の家で育てられているから当然なのだが、もちろんここから親がたいしたウェイトを占めてないなんてことにはならない。両親の役割はじいさんとばあさん(以下、このように表記する)が引き受ける。これも当たり前だ。物語は違うモチーフを使って、言いたいことを偽装する、あるいは隠蔽する。そもそも正面切って親から「子供が切り離されて成長していく話」を持ち出しても、

  • キャラクターについて考えてみる - 2009-12-08 - 感情レヴュー

    ソフラマのid:K-AOI、aBreのid:segawa-y、筑波批評のid:sakstyleによる座談会UST「キャラクターについて考える」を聴きました(http://d.hatena.ne.jp/tsukubahihyou/20091204/1259945292)。とても楽しかったです。キャラクターについて考えるきっかけをいただきました。 キャラクターを理解する上で先ず挙げられるのは、大塚英志のキャラクター分析でしょう。彼のキャラクター理解は、単なる記号にこそ魂が宿る、という逆説に基づくものでした。「記号的身体を「死にゆく身体」として発見してしまった手塚は同時に、「成熟する身体」をも否応なく発見してしまったのは確かです」(『教養としての〈まんが・アニメ〉』2001年)。 僕くらいの世代だと、これは柄谷行人の『日近代文学の起源』のマンガヴァージョンだなと誰しもが直感したものです。 柄谷

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  • ライトノベルの形をした「物語」批判 - 大樹連司『勇者と探偵のゲーム』 - 魔王14歳の幸福な電波

    「勇者が巨大侵略UFOを撃退すれば、次の日には防衛法が整備される」「探偵が妊婦連続殺人事件を解決すれば、出生率が上昇する」などなど、社会問題を象徴する「物語」を次々と生成しては現実と直結させる「日問題象徴介入改変装置」。この装置によってライトノベル的な予定調和物語が日常のものとなり、現実と物語に対して冷め切ってしまった人々が暮らす街。といったあたりが、作の骨格となる舞台と心性です。 装置によって生成されるライトノベルの「お約束」が徹底的に揶揄的な態度で語られていくなど、作はきわめてメタライトノベル的な要素が全編に(しかも否定的に)散りばめられています。ただし、作が批判しようとする対象は決して「ライトノベル」に限られるわけではなく、むしろ「物語」の恣意的な性質そのものを糾弾しているように見えました。だから、書を「ライトノベルのお約束批判」と評して話を終えてしまう向きが多いのは、ちょ

    ライトノベルの形をした「物語」批判 - 大樹連司『勇者と探偵のゲーム』 - 魔王14歳の幸福な電波
  • 実用書『物語工学論』でカットされた賀東×新城特別対談の中盤盛り上がり、どーんと一挙無料公開! - 散歩男爵 Baron de Flaneur (Art Plod版)

    S「……ってことで。いいかな、賀東君?」 G「ええ、いいですよ」 S「では以下どうぞ〜」 【まずは「物語論(3)」と「賀東招二、物語工学する」のあいだ(p163)で……】 物語論(4)――アクションとドラマ 新「賀東昭二にとってアクションの良さ、とは一体なんなの? 何が君をそんなに惹きつける?」 賀「自分の表現的な何か……ダンスを踊るのと同じような感覚があるのかも」 新「心理的なサスペンスなんかでは駄目なのかな? アクションにしても、二人がぐーっと睨み合って睨み合って睨み合って……みたいなサスペンス系とか」 賀「そういうのもありでしょうけど、自分の好きなのは、体を動かす……自分の体が動き出すアクション。自分がやりたいアクション。俺がやりたいんですよ」 新「そこだ。主人公と作者人の関係というのは実に興味深い話題なんだけど――いろんな人に聞きたいなぁと思ってるんだけど、書きながら主人公に感情

    実用書『物語工学論』でカットされた賀東×新城特別対談の中盤盛り上がり、どーんと一挙無料公開! - 散歩男爵 Baron de Flaneur (Art Plod版)
  • 「物語感覚」は普遍的ではないのかもしれない - 魔王14歳の幸福な電波

    5分で物語を作れるにようになるコツ リンク先の話題は非常に初歩的な話ですが、物語を実作するにあたってこういうところから入っていく姿勢は、大塚英志さんの物語論っぽいなと思いました。 大塚英志さんのやってる「物語論」のことは、ずっと不思議に思っていました。ああいうのは物語の批評的な意味での高度な分類やそれを肴にした与太話、または実利を度外視して分析のための分析に特化した高級学問としてけっこう面白いんですけど、それを実作に役立つものとし、「実用書」と銘打って『ストーリーメーカー』みたいなを出すのはどうなんだろう……と、ちょっと理解に苦しんでたんですね。これは大塚さんが単に変な人なだけなのか、それとも当に(需要だけでなく)効果のあるものなんだろうかと。 たしかに、物語を成立させるためには最低限の物語構造は必要*1なのですが、それは「車はタイヤが4つないと走れない」というようなものだと思うんです

    「物語感覚」は普遍的ではないのかもしれない - 魔王14歳の幸福な電波
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