「フィリピンパブ」の歴史 日本から飛行機で4~5時間の距離にあるフィリピン。この国と日本の歴史は長い。 豊臣秀吉の時代には両国の間で交易が行われ、江戸時代にはマニラに日本人町が形成されていたといわれる。明治時代から戦前にかけて、日本政府の主導で日本人移民が入植し、マニラ麻の栽培に従事した。戦時中は日本軍がフィリピンを占領し、甚大な被害をもたらした。 フィリピン・マニラ市内。経済格差が大きく高層住宅と貧困地区が隣り合う。 そして戦後、外国人労働者の受け入れを公に認めてこなかった日本が事実上いち早く門戸を開けたのは「エンターテイナー」とよばれるフィリピン人女性たちに対してだった。 高度経済成長を遂げた日本は1980年代、歓楽街での人手不足から、フィリピン人の女性たちに対して「興行ビザ」の発給を始めた。興行ビザは芸能やスポーツなどのために来日する人に与えられるビザだ。 女性たちはフィリピンでオー