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2020年3月17日のブックマーク (5件)

  • 「先生がオメガを倒したら宿題やってきてやるよ」と生徒が言ったので、わたしはゲームライターになった|Yuka S. (or rurune)

    (四半世紀前の思い出。間違い、勘違いがいくつかあります。修正しようと努力しましたが、次第につじつま合わせに必死になり、書き上げた時の情熱を自ら消してしまいかねないと気づきました。なので10年以上も迷って、やっとついに書き上げることができたままの文を残しておきます。) 大学生時代、塾講師のバイトをしていた。理由は金。岩手県で「現役東北大学生が勉強を教えます」とぶん回せば仕事がたくさん来た。家庭教師もしていたが、すぐに塾一に絞った。希少性を高めるため、不便なところを狙った。動機は金。岩手の実家から高速バスで1時間半揺られ、山奥の町の中にあるたったひとつの塾に週3回通った。当時の岩手はのんきなもので、高校進学の選択肢もそんなに多くはなかった。進学校に行くか、そうではない高校に行くか、それぐらい。それでも我が子のよりよい将来を願って、子供を塾に通わせる親が増えてきていた。 両親の願いを背負って送

    「先生がオメガを倒したら宿題やってきてやるよ」と生徒が言ったので、わたしはゲームライターになった|Yuka S. (or rurune)
  • 「すべて佐川局長の指示です」森友事件で自殺した財務省職員「遺書」入手 | 文春オンライン

    森友学園をめぐる財務省の公文書改ざん事件に関連し、2018年3月7日に自ら命を絶った財務省近畿財務局管財部の上席国有財産管理官・赤木俊夫さん(享年54)が、死の直前、決裁文書の改ざんの経緯を詳細に記した「手記」を遺していたことがわかった。 大阪日日新聞記者で、森友学園問題を当初から取材し続けている相澤冬樹氏が遺族から「手記」全文、および関連する手書きのメモの提供を受けた。 「手記」と題されたA4で7枚の文書は、自殺当日まで書かれていたとみられ、「すべて、佐川理財局長の指示です」「美並近畿財務局長に報告したと承知しています」など、当時の財務省、および近畿財務局の幹部らの言動について実名で詳細に綴られている。また「財務省が国会等で真実に反する虚偽の答弁を貫いている」などと同省の対応を強く批判しており、赤木氏自身、そうした不法行為に加担させられて心身ともに苦しんだ様子もつぶさに記されている。 「

    「すべて佐川局長の指示です」森友事件で自殺した財務省職員「遺書」入手 | 文春オンライン
  • 電車内で「俺はコロナだ」、群馬 業務妨害容疑で男逮捕 | 共同通信

    黒枠のラベルは、コンテンツホルダー自身が付与したものです。グレー枠のラベルは文解析で自動付与されたものです。 群馬県警は16日、桐生駅に停車していたJR両毛線の車内で同日午後、「俺はコロナだ」と新型コロナウイルスに感染しているかのような発言をし、別の乗客とトラブルになった男を偽計業務妨害容疑で現行犯逮捕したと明らかにした。県警は、保健所に連絡し、感染の有無を調べている。 JR東日高崎支社によると、男と同じ車両にいた乗客を別の車両に誘導するなどし、両毛線は約1時間運休した。

    電車内で「俺はコロナだ」、群馬 業務妨害容疑で男逮捕 | 共同通信
  • 美術作家 大槻香奈氏による"盗用"告発

    ondo @ondo_creative 【東京・清澄白河/@ondo_gallery】 「朽ちゆく日々の名残」と題し、流れる時間や事象の儚さ、その意味と向き合い表現します。 日画の技術をベースに。表現を広げる、庄司理子の世界をご覧下さい。 - 庄司理子 個展 「#朽ちゆく日々の名残」 3.5(木)〜15(日) ※月火休み →ondo-info.net/gallery_tokyo/… pic.twitter.com/miKlhA5Jsi 2020-03-04 08:43:57

    美術作家 大槻香奈氏による"盗用"告発
    kanicrap
    kanicrap 2020/03/17
    同人界隈でもよくある、当事者にしか分からない、でも確信的にそうとしか思えない何かがあるんだろうな。法で問うのは難しいだろうが、正直同情はしてしまう
  • 青木さやか「娘に触れる母に抱いた嫌悪感。最期にわだかまりを解消しようとして」(婦人公論.jp) - Yahoo!ニュース

    長年にわたり母との確執を抱えていたという、タレントの青木さやかさん。現在発売中の『婦人公論』3月24日号で、ご両親を看取った経験を語っています。わだかまりを解消するために掲げた目標とは…(構成=田中有 撮影=川上尚見) 【写真】病気をしたからといって母が丸くなるわけでもなく… * * * * * * * ◆「ごめんね」の一言が言えないまま 2014年に父を、19年の秋には母を見送りました。どちらも愛知県にいたので、近くに住む弟や親戚が主に通ってくれて、私はたまに顔を出すだけ。看病や介護の戦力にはあまりなっていなかったと思います。それでも、2人を見送ることを通して、私が得たものはとても大きかった。 成人しても、結婚して子どもを産んでも両親といい関係を築けなかった私が、考えを改めるひとつのきっかけとなったのが、父の死でした。 私が中学生の頃に母と離婚した父とは、長いこと連絡を取り合っていません

    青木さやか「娘に触れる母に抱いた嫌悪感。最期にわだかまりを解消しようとして」(婦人公論.jp) - Yahoo!ニュース