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ブックマーク / mf-fagott.hatenablog.com (4)

  • 周五郎仮名遣い - 僕が線を引いて読んだ所

    また仮名遣いの話かよ、と思われるかもしれませんが。 先週の土曜日、山手の方に行ったついでに神奈川近代文学館の「文学の森へ 神奈川と作家たち」展をちょっと覗いてみました。その時僕の目に留まったのが、山周五郎の自筆原稿でした。 明治生まれの周五郎が歴史的仮名遣いで書いているのは当然で、それがおそらく編集者によってことごとく現代仮名遣いに直されている。たとえば「匂ひい」のように。ところがよく見ると、校正前の周五郎の仮名遣いは 「〜が植はってゐる。」 「彼のはうえにじり寄った。」 「そばえ来た。」 のような調子で、正確には「歴史的仮名遣い」と言えないような独特なものなんですね。いったいこれはどういうことなんでしょう。展示されている原稿や手紙を見る限りでは、彼が現代仮名遣いに改めようとした形跡は見られませんから、新旧二つの仮名遣いの間で混乱したというわけではなく、もともと「そばえ」のような書き方を

    周五郎仮名遣い - 僕が線を引いて読んだ所
  • 「臭」は「自+犬」なのに - 僕が線を引いて読んだ所

    「国語」の時間の様々な学習活動の中で、漢字学習の占める割合というのはどのくらいになるでしょうか。おそらく少なく見積もっても1割、場合によっては3〜5割くらいだったりするかもしれません。最近では中学生が漢字検定試験の級を取得していると高校入試の際に加点されたり、高校在学中に取得した級が高校での修得単位と同等に扱われたりと、「漢字力」が重視される傾向は強まっています。 漢字はアルファベットのような音声を表す記号ではなく、もともとは一つ一つが意味を持った「言葉」なのですから(だからこそ種類がやたらと多いわけですが)、その習得にそれ相応の労力をかけるのは当然と言えるでしょう。しかし僕が疑問に感じているのは、漢字の形をどの程度正確に覚える必要があるのか、という点です。そして、定期試験や入学試験の漢字を採点する際に、正誤の基準をどの程度まで厳密にする必要があるのか、という点です。 『漢字は日語である

  • あいさつの心 - 僕が線を引いて読んだ所

    俳句界』12月号の中からちょっと気になった句を取り上げて、何回かに分けて書いてみたいと思います。 あいさつの心を知らぬ君らの句   筑紫磐井 「伝統派の若き俳人に」という前書きがあります。「あいさつ」とは、山健吉が、「挨拶と滑稽」の中で、「一、俳句は滑稽なり。二、俳句は挨拶なり。三、俳句は即興なり。」と言っている、その二番目の「挨拶」のことなのだろうとまずは考えておきます。山健吉は、俳句は客観世界を十七音の言葉に定着させたものであるが、そのあとに相手への問いかけ(isn’t it?)を忘れてはならならず、読者の側には会得したしるしとしての微笑が存在するはずだと言い、さらに次のように続けます。 発句が脇句を要求する連句様式においては、発句のこのような性格は見落とされることはなかったのである。私は俳句のこの特殊な性格を挨拶と言うのである。いわゆる挨拶俳句にそういった性格は顕著であるが、か

    あいさつの心 - 僕が線を引いて読んだ所
    kanimaster
    kanimaster 2007/11/28
    冬の朝吐く息白くこんにちは!
  • 現代の文語 - 僕が線を引いて読んだ所

    俳句界』では今年の4月号より、松田ひろむ氏による「文法の散歩道」という連載が続いています。9月号、10月号では二回連続で「助動詞『き』をめぐって」と題し、主に『日語を知らない俳人たち』(池田俊二著)の中の文語助動詞「き」の用法に関する見解について批判しています。僕には首を傾げざるを得ない箇所がいくつか見つかり、その中の一点ついてはこのブログの10月4日の記事で私見を述べました。 そして『俳句界』最新号には、松田氏の批判に対する池田俊二氏の反論(一般読者向けの雑誌の記事としてはかなり長文です)が載りました(「松田ひろむさんへの疑問 『し』に完了用法!? 為忠の歌にあるから?」)。言わば、日語文法をめぐる誌上討論のような形になってきたわけですが、どうも僕にはどちらの言い分にもしっくりしない部分を感じてしまうのです。 両者の争点は必ずしも一点に絞られず、議論は錯綜した感があります。しかし、

    現代の文語 - 僕が線を引いて読んだ所
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