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科学に関するkanopenのブックマーク (2)

  • 「啓蒙の弁証法」研究会

    「啓蒙の弁証法」 非常に難解な書物である。一文一文に深い思索が結晶のように凝縮されている。そして一語一語に切なる思いが込められているようでもある。 これはフランクフルト学派の祖である、アドルノとホルクハイマーの両者により共同執筆された著書である。これまで、幻の名著と言われてきたが、昨年、阪大の徳永教授により邦訳された。 近代の啓蒙思想である科学の陥穽をのぞき見ることができ、科学主義を超克し、新たに真理の探求の道に踏み込む決意をもたらすものである。啓蒙の弁証法的な内部構造を、鮮やかな切り口で提示している。 現代教育の科学主義、知育偏重 人間に与える影響 何故そうなっているのかを理解させてくれる。 啓蒙と神話という二つの相対立する概念を、対立しているのではなく、神話の中にすでに啓蒙が内在しており、啓蒙は何時神話に転化するかも知れない可能性を内在していることを明確に示す。 訳者あとがきより 19

  • [書評]意識は傍観者である: 脳の知られざる営み(デイヴィッド・イーグルマン): 極東ブログ

    デカルトの「我思う故に我あり」は通常、「思考している自分は存在している」と理解される。「自分という意識は確実に存在している」というわけである。当たり前ではないかと思うかもしれない。残念でした。「自分という意識」は脳機能の処理結果であって、それ自体で存在しているわけではない。あなたには自由意志なんてない。あなたの意識や自由意志は脳のプロセスの、ただの傍観者なのである。 冗談のようだがこの話は脳科学を学んだ人には常識の部類である。なにかをしようと意識するよりも身体のほうが先に動くことは実験科学的にわかっているからだ。座っていて「ちょっと立ち上がろうかな」という自由な意識は、実際には立ち上がろうとする身体の神経反応の後から生じている。生理学者ベンジャミン・リベット(Benjamin Libet)が1980年代に明らかにした(参照)。身体運動についての自由意識と思われているものは、身体意識の承認の

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