それにしても、なぜ薩摩人なのか。那須野が原にある三島神社を訪ねて、その理由が分かった。最初に、この広大な荒地を開墾しようと考えたのが、時の山形県令(今でいう山形県知事)だった三島通庸(みしまみちつね)という、薩摩藩の下級武士出身の人物だったのである。三島神社は、三島通庸を祀った神社だった。 三島が、東京と山形を往復する間に、那須野が原に目を止めたのであろう。三島神社の相馬秀和宮司は「このあたりの開発は、鹿児島の人たちの力に負うところが大きい」と話していた。 三島神社の拝殿には、通庸公を初代として、三島家の代々の当主の絵や写真が飾られている。最初は奇妙に思えたが、相馬宮司の話を聞いて、「さもありなん」と思った。 通庸公は、山形県令の後、福島県令、そして栃木県令を歴任することになる。栃木県令になったのは、明治16年のことで、その2年後に那須疎水が作られている。通庸は、那須野が原開拓の恩人なのだ