(歴史学者・倉本一宏) 大伴氏とともに軍事を掌る氏族 これも古代の名族であった佐伯氏の官人である。『日本後紀』巻三十五の天長四年(八二七)四月丁巳条(二十六日)には、次のように見える。 散位(さんい)正四位下佐伯宿禰清岑(きよみね)が卒去した。清岑は従五位下男人(おひと)の孫で、従五位下人麻呂(ひとまろ)の息男である。延暦二十四年に従五位下に叙され、弘仁十三年に従四位上に至った。温顔で、人に対して怒りを顔に出すことがなかったが、緩急の間で、適切に処理することが、はなはだ下手であった。清廉の程は、仰いで称(たた)えるべきものがあり、政化を遠くまで致し、地方官として悪い噂が立つことがなかった。但し、かつて上野守に任じられた時、通例の出挙(すいこ)の他に、更に加挙(かこ)を行ない。国内に未納が増え、民は返済できずに逃亡するなど苦しんだ。常陸守に遷任した時も、同様に出挙の加増を行ない、百姓に愁訴さ