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g弘仁に関するkanototoriのブックマーク (9)

  • 清廉さゆえ民を苦しめた?古代の名族・佐伯氏の官人 平安貴族列伝(15) | JBpress (ジェイビープレス)

    歴史学者・倉一宏) 大伴氏とともに軍事を掌る氏族 これも古代の名族であった佐伯氏の官人である。『日後紀』巻三十五の天長四年(八二七)四月丁巳条(二十六日)には、次のように見える。 散位(さんい)正四位下佐伯宿禰清岑(きよみね)が卒去した。清岑は従五位下男人(おひと)の孫で、従五位下人麻呂(ひとまろ)の息男である。延暦二十四年に従五位下に叙され、弘仁十三年に従四位上に至った。温顔で、人に対して怒りを顔に出すことがなかったが、緩急の間で、適切に処理することが、はなはだ下手であった。清廉の程は、仰いで称(たた)えるべきものがあり、政化を遠くまで致し、地方官として悪い噂が立つことがなかった。但し、かつて上野守に任じられた時、通例の出挙(すいこ)の他に、更に加挙(かこ)を行ない。国内に未納が増え、民は返済できずに逃亡するなど苦しんだ。常陸守に遷任した時も、同様に出挙の加増を行ない、百姓に愁訴さ

    清廉さゆえ民を苦しめた?古代の名族・佐伯氏の官人 平安貴族列伝(15) | JBpress (ジェイビープレス)
  • 飛鳥時代の名族・大伴氏の末裔、弥嗣の困った性癖 平安貴族列伝(11) | JBpress (ジェイビープレス)

    歴史学者・倉一宏) 名族だった大伴氏の子孫 こちらはかなり困った御仁である。大化前代の名族である大伴(おおとも)氏の末裔である。当時は淳和(じゅんな)天皇の諱(いみな)である大伴親王を憚って、伴氏を名乗っていた。伴氏は古代では「とも」と発音していたが、後世は音で「ばん」と読むようになった。 その大伴氏の、金村(かなむら)から数えて五世孫に、弥嗣(いやつぐ)という男がいた。先祖の名誉を弥(いよい)よ嗣ぐようにとの父伯麻呂(おじまろ)の願いが込められた名だったのであろう。 弥嗣の卒伝は、『日後紀』巻三十一の弘仁十四年(八二三)七月甲戌条(二十二日)に、次のように記されている。 越後守従四位下伴宿禰弥嗣が卒去した。弥嗣は従三位伯麻呂の息男である。延暦十九年に従五位下に叙され、大宰少弐に任じられた。弘仁七年に従五位上、十三年に正五位下、十四年に従四位下に叙された。たいそう歩射(ぶしゃ)に巧み

    飛鳥時代の名族・大伴氏の末裔、弥嗣の困った性癖 平安貴族列伝(11) | JBpress (ジェイビープレス)
  • 幻の古代山城を求めて

    「幻の古代山城を発見!」というニュースを、いつの日か聞きたいものだ。というのも、『続日紀』という公的記録に記載されながら、その場所が特定されていない山城が、備後国には二つもあるからだ。 それは「常城(つねき)」と「茨城(いばらき)」。茨城はさっぱり分からないが、常城は「常」という地名が福山市新市町にあることから、ある程度の場所は推定できる。今日は幻の常城の探訪である。 府中市山町に「青目寺(しょうもくじ)跡 東御堂地点」がある。県指定の史跡である。 人工的な平坦地であることは、見ただけで気付く。府中市教育委員会の説明板があるので読んでみよう。 南東に延びる尾根筋の鞍部を削平して平坦面が作られている。平坦面の中心には、石で周囲を囲い1段高くした基壇が残っている。基壇の内側には礎石が並んでいる。方形のお堂が建っていたと思われる。 青目寺は江戸中期に同じ山の中腹に移転している。門前の説明板に

    幻の古代山城を求めて
  • 四天王寺大学:空海の直筆書拓本見つかる | 毎日新聞

    真言宗の開祖で「日三筆」の一人として知られる弘法大師・空海(774~835年)の直筆書を基にした拓が四天王寺大学(大阪府羽曳野市)で見つかったと、高野山大学密教文化研究所(和歌山県高野町)の大柴清圓(しょうえん)研究員=中国古文字学=が6日、発表した。書の内容は古くから知られていたが、特定されていなかった書の日付が今回の拓で判明した。 見つかった書は、同じく書に秀でた嵯峨天皇(786~842年)から綿と七言詩を贈られたことに対する返書。末尾に「弘仁五(814)年三月一日」の日付がある。

    四天王寺大学:空海の直筆書拓本見つかる | 毎日新聞
  • 遺跡の竪穴式住居、平安期の大地震跡くっきり : 文化 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

    埼玉県深谷市の皿沼西遺跡の竪穴式住居から、平安時代の弘仁9年(818年)に起きた「弘仁の大地震」によるものとみられる液状化現象の跡が見つかった。 発掘調査を行う県埋蔵文化財調査事業団によると、この地震による被災の痕跡が残る竪穴住居の発見は初めて。住居や用水路が改修された形跡も確認された。国による復興支援が行われたと記録する文献もあり、関連が注目される。 皿沼西遺跡は、古墳時代中期から奈良、平安時代にかけて発展した大規模な集落跡で、昨年10月から約7000平方メートルを範囲として調査が行われている。 事業団によると、幅約10センチのひび状の砂層が数十見つかったのは昨年12月。地震で緩んだ地盤中の砂と水が地上に噴き出す「噴砂」と呼ばれる現象で、竪穴住居跡でも確認された。周辺で出土した土器の特徴などから、弘仁の大地震によるものと特定した。住居や用水路を改修して住み続けた跡も見つかり、地震後に集

  • Amazon.co.jp: 平城天皇 (人物叢書 新装版): 春名宏昭: 本

    Amazon.co.jp: 平城天皇 (人物叢書 新装版): 春名宏昭: 本
    kanototori
    kanototori 2009/06/18
    「長男に特有の生真面目さ」
  • http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0571.html

  • 『懐風藻』の琴

  • asahi.com:坂上田村麻呂の墓所特定 京都の「西野山古墓」 - 文化一般 - 文化・芸能

    坂上田村麻呂の墓所特定 京都の「西野山古墓」 2007年06月04日12時50分 平安初期の武人で上級貴族だった坂上田村麻呂(さかのうえの・たむらまろ)の墓を、京都大大学院文学研究科の吉川真司・准教授(日古代史)が文献調査で特定した。1919(大正8)年に京都市山科区で発掘された「西野山古墓(こぼ)」の可能性が極めて高いという。田村麻呂が創建したという清水寺(京都市東山区)に残る平安後期編纂(へんさん)の「清水寺縁起」に墓の位置が記されていた。 手前の竹やぶが西野山古墓(×印)。上方の○印が清水寺=4日午前、京都市山科区で、社ヘリから 西野山古墓から出土した国宝の金装大刀(上)と金銀平脱鏡=4日、京都市左京区の京都大総合博物館で 西野山古墓の地図 墓の場所は「縁起」にある弘仁2(811)年10月17日付の朝廷の命令書「太政官符(だじょうかんぷ)」の表題に記されていた。行政の最高機関が土

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