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ブックマーク / p-shirokuma.hatenadiary.com (14)

  • 「社会に通用する奴」は多様化しなかった - シロクマの屑籠

    「そんなんで、社会で通用すると思っているのか!」 通勤途中、ガソリンスタンドなどで朝礼をやっているのを見かけるたび、私はこの言葉を思い出す。滑舌の良い声で社訓らしきものを読み上げる二十代の社員達。営業時間にはキビキビと動き、表情も明るく、「ありがとうございましたー!」という声も淀みない。 就活スーツを着た大学生達も「そんなんで、社会で通用すると思っているのか!」を思い出させる。皆、同じような恰好をして、茶髪で就活する者など滅多にいない。20世紀の終わり頃、就職氷河期が叫ばれていた頃の大学生達は、あんなに均一な恰好だったろうか? 金髪、茶髪、(男性の)長髪、いろいろあったではなかったか? 今では「そういう格好では就活では通用しない」と周知されている、ということなんだろうか? よく、「日社会は価値観が多様化した」と言われる。私生活や家族構成は多様化したし、好きな漫画や視聴している番組といった

    「社会に通用する奴」は多様化しなかった - シロクマの屑籠
  • 「インターネットではチャンネル争いが起こらない」 - シロクマの屑籠

    テレビを一人で観るようになったのはいつ頃からだったろうか。 昭和30年代の写真を探すと、町角で大勢の人がテレビを見ている風景を見かける。この頃のテレビは、かなりの確率で“みんなで観る”ものだった。一家に一台テレビが普及した後も、テレビはやはり皆で見るものだった。一家に一台しかないテレビだからこそ、“巨人、大鵬、卵焼き”という言葉や“チャンネル争い”という言葉が存在していたのだろう。 視聴番組を巡るコンフリクトがあった = 皆が自分の見たい番組だけ観ていたわけではないということでもある。大人が子ども向けアニメを観ざるを得ない時もあっただろうし、ニュースや時代劇を子どもが観ることもあっただろう。家族という小さな器のなかとはいえ、テレビは一人で観るものではなく、自分が観たいものを観たいだけ観れるものではなかった。 ところが昭和の終わりになると、ひとつの家庭がテレビやビデオデッキを複数保有する、そ

    「インターネットではチャンネル争いが起こらない」 - シロクマの屑籠
  • "叩いて構わない奴はとことん叩く"空気と、いじめの共通点 - シロクマの屑籠

    ネットを眺めていてふと気付いた。 現在、日のメディア上では、ネットであれテレビであれ「バッシングを公認されるような過失・落度のある相手は、どれだけ叩いても構わない。その際、相手がどうなるかは配慮しなくて構わない。それが社会だ」という風景がリピート再生されている。なにか不祥事や事故があったら、法的責任が問われるだけでなく、責任者は罵倒され、土下座させられる。法的責任を追求するのとは別に、“感情を納得させる”ために罵倒すること・土下座させることを、社会正義とみなすような空気ができあがっている。もちろん、そうした罵倒や土下座に警察が口出しをすることはないし、マスメディアも何わぬ顔で報道する*1。バッシングが公認される大義名分がある限り、責任者が唾を吐きかけられてもしようがないよねー、という不文律ができているらしい。 インターネット上での“炎上”も似ている。失言・過失・違法行為があったと判明し

    "叩いて構わない奴はとことん叩く"空気と、いじめの共通点 - シロクマの屑籠
  • 「リア充」と「酸っぱい葡萄」 - シロクマの屑籠

    昨今はてな周辺でみかける、「リア充」という言葉の一時的フィーバーをみていると、この単語は、劣等感ゲームを通して不遇の自分に一服入れる為のカンフル剤としてしか役に立たないアイテムだなと感じる*1。 自分には無いけれども相手には保有される(または体験される)モノで、尚かつ羨ましく望ましいモノを見かけた時に「あいつはリア充」という単語を投げ掛けて、不遇コミュニティのなかで「リア充」という単語を共有するレクレーション。「リア充」発言者は、この一連のレクレーションを通して、当は美味しそうな葡萄を、さも不味くて回避しなければならないものであるかのような勘違いに成功する*2。また同時に、コミュニティ内部への帰属を確認することによって、“不遇な俺達”というアイデンティティをも獲得するのだろう。 今その瞬間の心的ホメオスタシスの維持として、「リア充」と発言する遊びは確かに有効には違いないだろうが、この営為

    「リア充」と「酸っぱい葡萄」 - シロクマの屑籠
  • twitterのリアルタイム投稿は、素人はよしたほうがいい - シロクマの屑籠

    Twitterで他人の動向を書くのは注意したほうがいい - ARTIFACT@ハテナ系 リンク先で指摘されているように、個人のプライバシーに抵触しそうなことをtwitterでつぶやいてしまうリスクは、常に気にかけておきたいと思う。せっかく会いたかった人に会えたオフ会で、自分の迂闊なツイートでその人に迷惑をかけてしまうようなことは誰だってしたくないだろう。 その一方で「個人のプライバシーに抵触しそうなことを投稿しない」という判断はなかなか大変だと思う。「あっ、これtwitterに投稿したい!」って思った瞬間に、それが危険なツイートなのか安全なツイートなのかを見極めるのは難しい。もちろんこれは、オフ会や現場レポートの類に限った話ではない。ひとつひとつのネットへの投稿がどのような影響を*1及ぼすかを判断する行為は、当はかなり高度な知的活動だと思う。そのことを、みんなどこまで意識しているんだろう

    twitterのリアルタイム投稿は、素人はよしたほうがいい - シロクマの屑籠
  • “お金に困っている人は、えてしてお金がかかる” - シロクマの屑籠

    精神保健福祉の分野では、精神科医はわりと脇役で、社会復帰や自立支援にかかわる職種(市役所の福祉課職員、保健師、精神保健福祉士、民生委員 など。ときには警察官や弁護士も)がメインとなって連携が成立している。そうした、他職種の人達とお金の問題をディスカッションしている時に、ふと右のようなことを思うことがある。――「お金に困っている人は、えてしてお金がかかる」んじゃないか――と。 どういうことかというと、生活費が入ると右から左へ全部使ってしまう人や、いわゆる“やりくり”が出来ないというより“やりくり”が完全に欠落しているような人が、精神医療の内側にも、精神医療の外側にも、どうやらそれなりの確率で混じっているっぽいからだ。 1.買い物をする際に、金銭の節約という概念が無い。欲しいと思ったら我慢せずに買ってしまう。放っておけば、一ヶ月の収入の大半をたちまち使い果たしてしまう。 2.生活技能・生活感覚

    “お金に困っている人は、えてしてお金がかかる” - シロクマの屑籠
  • なぜ少女が湯水のように消費されるのか――男性オタク界隈における少女の消費状況について―― - シ口クマの屑籠(汎適所属)

    今となっては違和感を表明する人もあまりいないが、深夜アニメやライトノベルといった現代のオタク向けコンテンツには、たくさんの少女が登場しては湯水の如く消費されている。『けいおん!』や『魔法少女 まどか☆マギカ』のような、男性が絶無に等しいキャラクター構成が、例外ではなくオーソドックスになったことは、当は驚きに値することではないだろうか。どうして男性オタク界隈でこんな事が起こっているのか?以下に、考えてみようと思う。 1.エロという身も蓋もないニーズ(古典的に消費される少女) アカデミックな議論では無視されがちだが、ベタで重要な要因の一つ。 極めてシンプルに、セクシャルに、「鑑賞対象としてもエロい想像を膨らませる対象としても、少年よりは美少女を見ているほうが気持ちいいから」という身も蓋もない理由。こうした古典的なニーズをよく反映しているのは同人誌の世界である。『けいおん!』のような、エロ消費

    なぜ少女が湯水のように消費されるのか――男性オタク界隈における少女の消費状況について―― - シ口クマの屑籠(汎適所属)
  • 日本人が失ったのは「寛容」ではなく「身内」では? - シ口クマの屑籠(汎適所属)

    「最近日から寛容さが失われている」のは何故か - Togetterまとめ 新幹線の車内ではしゃいでいる子どもや、夜遅くまで騒いでいる大学生に対し、私達はどれだけ寛容な気持ちを保っていられるだろうか?次世代を担う子ども達の、年齢相応の振る舞いに対してさえも、寛容よりも非難が勝る人が増えているのではないだろうか? 寛容さとは正反対の、きわめて自己中心的な人達もよく見かけるようになった。自分の意に沿わない相手に攻撃的な人間や、他人に際限なく要求する人間が、モンスター○○などと呼ばれて問題視される時代でもある。*1 これらを踏まえて「昔の日人が寛容」で「現代の日人は寛容じゃなくなった」と結論づける人は多そうだ。少なくとも、見かけ上、日から寛容さが失われたように見えるのはその通りかもしれない。 「身内」には寛容でも「他所者」にはそうでもなかった日人 では昔の日人は、当に寛容だったのか?

    日本人が失ったのは「寛容」ではなく「身内」では? - シ口クマの屑籠(汎適所属)
  • 「若作りうつ病」 - シロクマの屑籠

    若さに執着して、うつ病になる。 メンタルヘルスをこじらせて精神科を受診するまでの道筋には様々なパターンがありますが、ネット上で話題になりやすいのは、就労環境の厳しさや過剰なストレスが原因という筋書きの、外的環境の厳しさがメインのパターンかと思います。 でも、そういう外的環境や外的ストレスによって発病したというより、当人自身のライフスタイルや目標設定に無茶があったとしか言いようが無い経路でメンタルヘルスのこじらせる人も結構多かったりします。 今回紹介する、「若作りうつ病」*1といいたくなるパターンなども、その最たるもののひとつです。 【事例1】Cさん、41歳女性 Cさんは大手印刷会社に勤務している二児の母親。仕事も家庭もそつなくこなし、社交的で、スポーツジム通いも積極的だった彼女は、「自己実現している女性の雛型」として、社内では尊敬を集めてもいました。 しかし200X年の年末、多忙の合間にコ

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  • 「歳の取り方」が分からなくなった社会 - シロクマの屑籠

    テレビをつけても、街を歩いても、「若さを保つためのテクニック」が溢れている。けれども「歳の取り方」はあまり目にすることが無いし、「歳を取る」ということを肯定的に教えてくれる人にもなかなか出会わない。「歳の取り方」は、いつ、どこで、誰から教わればいいのか?そう考えた時、自分が即座に答えられないことに気付く。 「歳の取り方」のロールモデルは何処へ? ここでいう「歳の取り方」というのは、生物学的な加齢現象のことではなく、心理・社会的な意味での「歳の取り方」だ。 人間は、まっすぐ一様に老けていくわけではない。社会経験や立場、人間関係のなかで、心の持ちようや振る舞いを年代ごとに変えていく生き物だ。世話される立場から世話する立場へ・教わる立場から教える立場へ……といったように、自分の立場をギアチェンジしながら世代を紡いでいく。少なくとも、かつてはそうだった筈だ。 ところが、今は、「歳の取り方」のお手

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  • 中二病っぽい自己顕示と、インターネット今昔 - シロクマの屑籠

    中二病っぽい、幼稚な万能感をいくらでも誇示できる空間としてのインターネット。 こういう雰囲気がインターネットの世界から失われて、既に久しい。 1990年代〜2002年ぐらいまでのインターネット----つまりblogやSNSが普及する以前のインターネット----には、中二病的なメンタリティを顕わにした“ホームページ”や、自己顕示の権化のようなBBS(掲示板)を、かなりの頻度でみかけることができたし、そのような、宝石箱をひっくり返したような自意識を、長期間観測しつづける機会も沢山あった。おそらく日常生活のなかでは抑圧されているのであろう、溢れるような万能感を隠すこともなく、PCのスペック自慢やら、自作ポエム自慢やら、ありとあらゆるものを披瀝してやまない愛するべき“ホームページ”達。当時、インターネットを始めて間もなかった頃の私は、“インターネットっていうのは、万能感をぶちまけても怒られにくい場

    中二病っぽい自己顕示と、インターネット今昔 - シロクマの屑籠
  • 力量も無いのに“友達”“人脈”を膨張させれば自滅が待っている - シロクマの屑籠

    友達1000人”とか“幅広い人脈を目指す”とかいった文章をみると、私はうへぇと呻いてしまうほうである。ましてやそれが、インターネットではなく日常生活の話ともなれば、他人事ながら戦慄を禁じ得ない。 確かに、“友達”の定義次第では、“友達1000人”も不可能ではないかもしれない。顔見知りをつくるとか、携帯のメアドを交換する相手を増やすとか、そういうレベルまで“友達”と呼ぶのであれば、ある程度の根性と体力があれば実現できるかもしれない。 しかし、当に“友達1000人”になっちゃったらどうなるのか? 人脈ネットワークを急速に拡張していったら何が起こるのか? 先の先まで考えると、バラ色の未来とは限らないような気がする。例えば、若くて器量の良い女性が“友達1000人”を目指したら?器量さえ良ければ上手くいきそうにみえて、よほど思慮深く振舞わない限り、彼女の前途は多難ではないだろうか。 以下に、例え

    力量も無いのに“友達”“人脈”を膨張させれば自滅が待っている - シロクマの屑籠
  • 若いライトオタクの流入と、中年オタクの難民化 - シロクマの屑籠

    誕生でも発見でもなく、越境が始まったんだと思う - 未来私考 「脱オタ」が無意味になる時代は来るか? - Something Orange 「ライトオタク」が、話題になっているらしい。 “筋金入りのオタク”ではない人達も『東方』や『アニソン』などを楽しむようになり、オタク文化がクラブミュージックやファッションのような他文化と交流するようになってきている、という現状認識は、じつにその通りと思う。秋葉原やコミケなどの敷居が低くなっているのに加え、ニコニコ動画のような、気軽につながりやすい場が整備されたことによって、こうした動きが加速された、というのもなるほどと思う。そして「ライトオタク」に該当する人達が、“筋金入りのオタク”とは違った振る舞いをみせるだろう、というのも予想できる。 では、これから「ライトオタク」がもっと流入してきたらどうなるのか? オタク文化圏の外側では、おそらく、クラブミュー

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  • 偉そうなオタクが減った代わりに、ジャンルを系統的に把握するオタクも減っている - シロクマの屑籠

    最近のオタク リンク先の記事にある通り、最近は、オタク的薀蓄をひけらかして威張ってまわるようなオタクがめっきり少なくなった。数年前までは、アニメやゲーム漫画の知識を披瀝することで「俺様は、お前らよりも偉いんダゾ」と確認したがる人に頻繁に遭遇したものだが、オフラインでそういう風景をみかけることが減ってきた。それに伴い、いわゆる“布教活動”に勤しむ人も、少数派になってきているようにみえる。 この変化の要因については、「オタクがヌルくなってきたから」「ライトなオタクが増えたから」という説明をみかけることが多いし、それは多分当たっているのだろう。コアなオタクだけがライトノベルや萌え系コンテンツを独占している時代は既に遠い。若い世代を中心に、幾つかのhobbyのひとつとしてライトノベルや萌え系コンテンツを屈託無く*1楽しむ層が増加すれば、旧来からの、知識蓄積に拘るタイプのオタクや、オタク分野という

    偉そうなオタクが減った代わりに、ジャンルを系統的に把握するオタクも減っている - シロクマの屑籠
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