『ゲド戦記』や『フランケンシュタイン』の紹介を聞きながら腑に落ちたのは「自分との対決」という構造。そもそも「対決」が成立するためには、同じ次元にいる必要がある。価値観の相違や利害の対立が成り立つのは、同じプラットフォームの上でありながら、それでも違いがあるからこそ。絶望的に違う相手とは、そもそも対決自体がありえない。非対称な蹂躙、屠殺、空爆の話になる。 この、「同じだけど違う」もののうち、最も強敵かつ昔ながらの存在は、「自分自身」になる。かつて自分が生み出した影に追われ、追い、対峙する話。自己を最もよく知る理解者であるからこそ、憎しみもひとしおで、憎悪も超えた同化愛にまで発展しうる。 映画やドラマ、フィクションを横断して、いわゆる「エンタメ」分野が多かったのは、対決構図は物語の駆動力(ないし吸引力)にしやすいからだと推察する。逃げる・追う、戦う、競うなど、ストーリーを転がしやすくしてくれる