日本代表のロシア・ワールドカップでのチャレンジはベスト16で終わったが、今大会は乾貴士や柴崎岳、昌子源といった“W杯初出場組”が目覚ましい活躍を見せた。すでにスペインでプレーしている乾と柴崎はもちろん、鹿島アントラーズでプレーする昌子にも欧州の主要クラブからオファーが届くかもしれない。 【動画】ユーヴェのユニを着たC・ロナウド人形が登場 思えば、同じくベスト16に進出した2010年の南アフリカ大会後も、内田篤人(鹿島→シャルケ)や長友佑都(FC東京→チェゼーナ)らが欧州への移籍を果たした。W杯という「見本市」で自らの価値を示し、海を渡ってステップアップする。これは今や日本人選手にとって成功への“黄金ルート”となった。 そんな「W杯経由ヨーロッパ行き」の先駆者と言えるのが中田英寿だ。1998年、日本が初めてW杯に出場したフランス大会で、当時21歳の攻撃的MFはチームの中心的役割を担っていた。
◆W杯で輝けなかった「エース」の本音~中村俊輔(2) 2010年南アフリカW杯に向けて、新しいスタートを切った日本代表はイビツァ・オシム監督が指揮を執った。 ■ドイツW杯、中村俊輔が明かす「俺が輝けなかった」理由 中村俊輔は、中田英寿引退後の代表チームにあって、中心選手になっていた。その存在感は、ジーコジャパン時代の中田のような、絶対的なものだった。 2007年11月、オシム監督が脳梗塞で倒れると、岡田武史監督が代表の指揮官に就任した。 W杯予選が間近に迫る代表合宿において、岡田監督は中村、中澤佑二、遠藤保仁の3人を部屋に呼んで、「おまえたち3人が(チームの)中心になってやってくれ」と伝えた。中澤がキャプテンになり、経験豊富で試合を組み立てる力がある中村と遠藤がチームのけん引役を任されたのだ。 「代表のために、代表が強くなるために『何かできないかな』っていう意識が強かった」 中村は相当な覚
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