鶴見俊輔の晩年、八〇歳を過ぎたころから、泊まりがけの所用などに同行する機会が増えた。以前は、重いボストンバッグ(対談相手の著書などに付箋をたくさん貼りつけ、いつもどっさり持ち歩いていた)を提げ、どこにでも一人で出向いていく人だった。荷物をお持ちしましょう、席を譲りましょう、と勧められても、頑なに辞退していた。 だが、相次ぐ大病と手術をはさんで、足取りはじょじょにおぼつかなくなり、耳も遠くなる。それでも、この人は出歩くことをやめない。講演などの依頼された仕事だけでなく、自分からも新たな共同の計画を発案し、人に呼びかけ、さらなる実行に出ようとした。 とはいえ、混みあう駅のコンコースの雑踏で、先を急ぐ旅行者にぶつかられるのはこわい。背後から押されたりして、よろけると、もはや体勢を立てなおすのも難しい。 私は、そのころ東京で暮らしていた。だから、京都から鶴見が出向いてくるときには、互いの都合が合え