先日『猫』を読み終えたとき、自分にとって漱石のベストはどの作品かということを考えた。読んだ作品をあれこれと頭に浮かべたすえ、『猫』でも『坊っちゃん』でも『三四郎』『夢十夜』でもなく、やはり『こゝろ』に落ち着くのである。 ではなぜ『こゝろ』に惹かれるのか。 国語の教科書に載っていた作品のなかで珍しく面白かったということや、ストーリーが劇的だという点が思い浮かぶ。でもいずれにせよ決定的な原因ではないような気がする。 辰野隆の人物回想エッセイ集『忘れ得ぬ人々』(講談社文芸文庫)を読んでいたら、漱石を語る文章のなかにその理由らしきものをたまたま見つけ、「これだ」と膝を打った。 辰野隆が安倍能成・小宮豊隆と酒を飲みながら漱石や寺田寅彦の思い出話に花を咲かしていたとき、安倍が『こゝろ』を評して「然しこの小説には何となくブキッシュなところがあるなあ」と言ったというのである(「漱石・乃木将軍・赤彦