凋落するメゾン・クローズと台頭するブラスリ 7月王政期(1830~48年)に最も栄えたメゾン・クローズですが、第2帝政期に入ると数を減らし、共和制の1881年以降はさらに減少しました。 商売が立ち行かなくなったメゾン・クローズは、メゾン・ド・ランデヴーへと営業形態を変えます。公娼でない素人娼婦に部屋を貸し、通いの娼婦は窓辺で着飾った姿を見せながら、やってくる客を待ちました。 あくまでも「自由恋愛」を装った形だったため、グレーゾーンの経営でした。 セーヌ県知事のオスマン大改造でパリの下町が再開発され、貧民街が一掃。キレイになった街になじまないメゾン・クローズは建設されないまま消滅しました。 再開発のバブル経済で地価が高騰し、同時にメゾン・クローズの警察への認可料がアップしたことで利益が減少します。さらに良質な娼婦を集めるのも難しくなり、ジャーナリズムの発達で売春商売への風当たりが強くなります