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いじめと教育に関するkenjeenのブックマーク (6)

  • アンカテ(Uncategorizable Blog) - 「いじめの社会理論」書評

    いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体 凸字型コースのハーフパイプに似たいじめ問題 スノボーのハーフパイプという競技は、コースがU字型だから成立する。左右どちらでも端に行けば、競技者にはまん中へ向かう力が加わって、その力はまん中から逸れる程強くなる。そういう力学があるから、競技者は、コースを端から端まで使いきって見事な演技をすることができる。 考えるのも馬鹿馬鹿しい設定だが、もし、これが逆に凸字型に曲がったコースであったら、大半の競技者は滑りはじめやいなや、あっと言うまにコースアウトしてしまうだろう。U字型の場合と逆に、競技者には、外向きの力が加わわり、その力は逸れれば逸れるほど強くなって修正不能になる。 もし、これを滑りきるプレーヤーがいたら、それは単にコースまんまん中を一直線に脇目もふらずに進んだ人間でしかなく、見ている方もやっている方も一つも面白くない。 私がいじめ論議を見て

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  • 悲しいお知らせ。 | 性・宗教・メディア・倫理

    いじめには理由がある。 “協力・助け合いの重要性を実感してもらうため体育の時間に「30人31脚」を行うことなどを提唱している” 朝日新聞:教育再生会議「心の成長」策提唱 http://www.asahi.com/edu/news/TKY200611290420.html 30人の生徒が足首を紐で結び合わせて走る競技を取り入れる。 そのクラスでいじめの種子、たとえば「臭う」「汗っかきでキモイ」などから「なんとなくウザイ」「ノリがわるい」などの認識を特定の一生徒が複数の生徒達から持たれる、があったとする。 そこで、30人が足首を結び合わせて走ったとき、何が起きるだろう。 * “共同体型の学校では、ネズミや鳩を檻の中でむりやりベタベタさせると、通常では考えられないような攻撃性が生じるという、あの過密飼育実験をわざわざ税金をどぶに捨てながらやっているようなものです。” 『学校が自由になる日』(雲母

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  • 木走日記 - いじめ自殺問題。日本の教育行政のことなかれ主義〜いじめに安直な「成果主義」など導入するな

    いじめ:「教育委員会は役立たず」中学校長が音語る 昨日の毎日新聞記事から・・・ いじめ:「教育委員会は役立たず」中学校長が音語る 学校現場はいじめになぜ向き合わないのか。東京都内の現職の公立中学校長が、多数の都道府県に広がりつつある「成果主義」に近い人事考課制度も原因になっていると音を語った。人事評価でバツがつくのを恐れる「事なかれ校長」がおり、そんな校長から評価される教員たちも委縮する−−との指摘だ。文部科学省の統計で「いじめ自殺ゼロ」が続いてきたが、いじめを報告し難い背景が浮かび上がった。【井上英介】 いじめ報道を受けて取材に応じた東京都内の公立中学校長は、「親に対し、いじめがあったとはなるべく認めたくない。教育委員会にもできれば報告したくない。報告しても問題の解決には役立たない」と音を打ち明けた。 親に認めたくない理由は、いじめる側もいじめられる側も教え子で、一方の言い分を

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  • いじめもゲームのせいになる、という話 - H-Yamaguchi.net

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  • はじめと終わりがつながってませんが、御容赦ください。 - ちゃずけのはてなにっき

    履修問題では二人も校長先生が自殺しているのに、いじめ自殺で死ぬ校長先生がいないのは実に不思議なことだ。 人一人の命が失われ、もう2度ともどってこないことよりも、生きている生徒の回復可能な単位数問題の方が 先生にとっては大事らしい、つまり、親から預かった生徒の命をなくしたことより 文科省の言うなりにならなかったことの方を恥じる気持ちが強いのだろう、誠に日教育とは偉大だ、 「上意」を「下達」できなかったことに死を持って詫びる、と言う礼節が生きている。 今校長世代とは戦後生まれの人ばかりだと思うが、私は戦後の教育は「死ぬな」を教えることだと 思っていたのにその教育が身についてない人までが校長にまで登りつめるのだから、この先大変心強い、 たとえ教育法が改悪されて「お国のために死ぬことがよいことです」と教えられても それに心から従う人はお上が思うほど多くはないことだろう。 もちろん亡くなった

    はじめと終わりがつながってませんが、御容赦ください。 - ちゃずけのはてなにっき
    kenjeen
    kenjeen 2006/11/11
    子供の集団心理を大人でさえ統御できないと言うのになんで一人一人のか弱い子供が抵抗できるものか
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