生き方としての「非モテ」、つまり、モテようとすることからおりる生き方自体は、もう普通に市民権を得つつあって(もちろんそれは都市部の中の一部での状況であろうけれども)、でもその生き方を貫くとモテたりして、確かに「非モテ」をアイデンティティとするメンタリティも突き詰めるとかっこいいのだけれども、問題はそのどちらにもいけない人々が実はリアル非モテで、しかもそういう人たちは結構な数がいるようだ、とか。 持たざるものとしての「非モテ」、持つものとしての「リア充」。このプロレタリアとブルジョワジーとの関係のようなわかりやすさ。そのわかりやすさをネタとして消費している感もある。 つまり、それはスケープゴートとして「リア充」を使用しているともいえるのではないだろうか。 たぶん、「非モテ」の生き方というものが一般化して明確な攻撃対象を生み出さない、ということが、マイノリティとしての「非モテ」という言葉が終了