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ブックマーク / note.com/yuuuuuiiiii (2)

  • 書くという行為について|嘉島唯

    言葉に力なんて宿ってない。期待もしていない。 迷いがなかったことは、一度もない。 高校生の時、小論文の授業で自分の過去を振り返ることがあった。今まで世間についてきた嘘がバレていくようで嫌だった。つらいし、痛いし、みっともない。文章を書くとはそういうことだ。 じゃあ、なぜ私は書くのだろう? 少し前まで「誰かのために」とか「救いになれば」と思っていた。 文字に力なんてないと思いながらも、実際私はいくつかの文章を読んでは、涙を流し、心を打たれた。だから、自分もいつかそういうものを作ってみたいと願った。 社会に生きているのだから、せめて誰かの役に立ちたい。そうでなければ、価値がないと思っていたからだ。 でも、この考えが大きく揺らいだ。 きっかけは、ある音楽家だ。彼は静かに、軽やかに、ふふっと笑ってみせた。 「何かを作る時、誰かを救おうと思うのは……傲慢でしょう? 病的だよ。恥だと思う」 白い日差し

    書くという行為について|嘉島唯
  • エモい文章の作り方|嘉島唯

    エモい。この不明瞭な形容詞が定着するなんて思わなかった。 エモさとは何なのか? Wikipediaには「感情が動かされた状態」、「感情が高まって強く訴えかける心の動きなどを意味する日語の形容詞」と書いてあるけれど、いまいちよくわからない。 一方で、私の文章は、「エモい」と評価をもらうことが多い。謎めいた形容詞で言い表される文章とは一体どういうことなのか? こんなことを書きながらも、自分自身、「あ、これはエモい」と思う作品に出合うことは多い。切なくて、妙に共感して、胸がざわつくあの感じ。単に甘美な言葉を羅列しただけでは、こんなに胸は動かされない。 私は、ひとつ仮説を持っている。 決して同じ体験をしたわけではないけれど、映像が頭に浮かび、追体験したような気分になる。この時、人は文章にエモさを感じるのではないか? それは「固有名詞」×日常性で作れる。 『ボクたちはみんな大人になれなかった』は、

    エモい文章の作り方|嘉島唯
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