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religionとthinkingに関するkenjiro_nのブックマーク (5)

  • 無宗教な自分が辛い

    昨日、くだらないが 「自分は死んだらどうなるんだろうか、何も意識が無いところから突然生まれて、今生きている。そして自分は何十年も経ったら間違いなく死ぬ。もしかしたらそれより早く突然死ぬかもしれない。でも死んだ後俺はどうなる?意識が無くなって、そして、どうなる?その後に何が起こる?何も起こらないまま、何百年も何億年も過ぎていくのか?その後それが終わったらどうなる?そもそも終わりはあるのか?自分が生まれる前、自分はどこにいた?意識はどこにあった?」と、高校1年生のようなことを考え始めた。 その時、自分にはそれを解決して、1つの仮説を持ち、安心を得るための手段が無い事に気がついた。宗教である。 自分(というか、ほとんどの日人)は無宗教である。 それを当たり前のように受け入れていたが、 1年前に祖父が死んだ時にお寺で葬儀を行った時や、 この間結婚式の挙式会場の下見で歴史あるとあるカトリックの教会

    無宗教な自分が辛い
    kenjiro_n
    kenjiro_n 2015/03/30
    無宗教じゃなくて“日本教”あるいは“世間教”の信者でした、というオチ。できすぎたオチなんで増田文学の可能性を考えてしまう。
  • 悪い知識は大切 - レジデント初期研修用資料

    道徳は大切だけれど、道徳的な人間を生み出そうと思ったときに、道徳だけを教えたのでは片手落ちなのだと思う。道徳というものは、不道徳な「悪い知識」を土台にすることで、初めて堅固な力を持てる。 道徳の効用 理念や道徳というものは、「手続きに従えば簡単に扱える人間」を作る手段として役に立つ。 道徳を、道徳単体として「正しいものだ」と習った人は、道徳的に基づいて何かを促されると逆らえないし、よしんば法律に違反するようなことを命じられても、それが「道徳的なのだ」と強弁されると、高い可能性でそれに従ってくれる。 他人を陥れる方法や、欺瞞を運用して誰かに特定の振る舞いを強要する方法を教わった人は、人を操作するための手続きを見破ることができる。こういう知識を持った人は、運用された道徳から自由でいられて、結果としてたぶん、道徳や理念はどういうものが好ましいのか、自分の頭で考えられる。 どちらの人間がより好まし

    kenjiro_n
    kenjiro_n 2011/07/07
    ポジショントークはしたくないがこういう処世術の要らない世界を希望しているので同意しにくい、あるいは同意できない。
  • 医療・健康の新着ニュース|【西日本新聞】

    kenjiro_n
    kenjiro_n 2010/08/18
    「若者たちの「あの世」は死生観や道徳観にほとんど影響を及ぼさないゲームやドラマのようなファンタジーの世界なのです。」そうなん?
  • 寛容は不寛容を寛容しない - 過ぎ去ろうとしない過去

    http://macska.org/article/225 講演中、かれは「原理主義的無神論者」を批判するクリス・ヘッジズ『I Don’t Believe in Atheists』に言及しながら、「無神論の原理主義なんて誰も怖がりはしないだろう、『もっと理性的に話をしよう』と言うだけなんだから」と嘲笑した。しかし現実に「新しい無神論」の代表的論客の何人かが、機会があるごとに米国のイラク侵攻を熱烈に支持する発言を続けている(ばかりか、イランが核兵器を持つ前に核で先制攻撃をしろとまで言っている人もいる)ことや、西欧におけるイスラム系移民排斥の口実がもはや「キリスト教文明を守るためにイスラム教徒を追い出せ」ではなく「女性や同性愛者の権利、言論の自由など近代リベラリズムの原則を理解しようとしないやつらを追い出せ、入れるな」となっているーーそれは要するに、近代リベラリズムの原則がイスラム系移民ら「市

    寛容は不寛容を寛容しない - 過ぎ去ろうとしない過去
    kenjiro_n
    kenjiro_n 2010/02/01
    “寛容を騙る不寛容”とどう相対せばいいのだろう?
  • 史上最大にして、最もささやかな宗教とその帰結:何故我々は満員電車で無視し合うのか?

    「みんながめいめい自分の神さまがほんとうの神さまだというだろう。 けれどもお互い他の神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう」 (宮沢賢治『銀河鉄道の夜』初期形第3稿より) 人が、自分の生まれた村や町で一生を終えていた時代には(想像もつかないほど昔のことじゃない。時間にすれば、人類の歴史のうちほとんどがそうだった)、接する人たちは皆顔見知りで、村や町みんなで同じ神様を祭ったり拝んだりしていた。 コミュニティの中や近くにある岩やらトーテムを、コミュニティのみんなで拝んでおけば、自然と一体感がうまれてうまくいった。 これが原始的な宗教のかたちだった。 そして同じ神様を祭ったり拝んだりする人たちが、要するに「仲間」だった。 ところが、多くの人間が互いに大きく移動し合い、一人の人間がいくつもの集団に所属したり、見も知らぬ人の集まりがあちこちにできたりする時代となると、「同じモノを拝む奴

    史上最大にして、最もささやかな宗教とその帰結:何故我々は満員電車で無視し合うのか?
    kenjiro_n
    kenjiro_n 2010/01/07
    特定の宗教ではなく自己決定すら否定する「個人崇拝」という考え方の話。俺の全体主義思考とマッチしているようにも読めるのが不思議。
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