そこから、色々なことを”私なりに”理解したのであるが、この連載の第1回で書いた「クメール語が理解できなくても、彼らが創った映像を見れば、彼らが大体どんな道筋で物事を理解し、どう考えているのか、少なくともどんな風に考えるように教育されてきたかが想像できる」というのを、まとめてみるとこんなことになるのだと思う。 1.上意下達のカンボジア社会にあって、社会的地位の高い人から認められることは一番の名誉である。だからカンボジアのテレビニュースには、常に儀式・式典映像ばかりが並んでしまう(通常、日本のテレビマンは、「儀式・式典の映像ほど絵にならないものなない」と言って避ける傾向にある)。 2.出版文化や出版物そのものが破壊されてしまったために、物語を構築するのが難しい。 3.映像表現に客観と主観があることが理解できないため、曖昧な映像で表現しようとする。また、自分の主観的興味に素直なので、対象物ばかり