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自由論に関するkeya1984のブックマーク (6)

  • 「自由」への想い - 雪斎の随想録

    ■ 雪斎にとっては、「自由」が至上の価値である。 雪斎は、六歳から九歳までの頃、障害児施設で暮らしていた。その時期、何が憂であったかといえば、「いたいものがいたいときにえない」ということである。アイスクリームがべたいな思ったときに、駄賃をもらって店で好きなものを選んで買うというわけにはいかないのである。加えて、万事、規則ずくめの暮らしだから、息苦しいこと、この上ないのである。「こういうところからは早く出たい」と思っていた。 だから、後年、社会主義体制の実態を知るようになったときに、「昔のこと、そのままだ」と思ったものである。 「自由」とは「独立自尊」の同義である。 そして、雪斎は、二十数年かけて、「自由」を手に入れた。カネは何のためにあるのか。それは、自分の「自由」を担保するためのものである。生きていく上での「不自由」は、カネがあれば減らすことができる。元々、物欲にも淡白な雪斎が

    「自由」への想い - 雪斎の随想録
  • ポット出版 » 神名龍子◎理よりも利●スタジオ・ポット/ポット出版

    Fatal error: Call to undefined method Ethna_Logger::setLogger() in /usr/share/pear/Ethna/class/Ethna_Controller.php on line 255 『欲望問題』は、私がこの10年間に渡って考え続け、発信し続けてきたことが、私よりもずっとわかりやすく、そして私よりもずっと穏当に(笑)表現されている。 「差別問題」の「欲望問題」への置き換えと同じことを、私は「理よりも利」と表現してきた。ここでいう「理」とは、たとえば第2章で言及されているフェミニズムのようなイデオロギーと考えていい。「利」とは欲望追及やその実現に他ならない。社会運動の動機とは、人が世の矛盾や非合理にぶつかったとき、その解決を目指すことであるはずだ。 しかし従来の反差別運動には致命的な問題点がある。それは、何らかの絶対的

    keya1984
    keya1984 2007/12/20
    筆者が社会学的な文脈でのgender(つまり学的なフェミニズムのそれ)を全く理解できていないのならば知的怠惰である。理解しつつあえてそれに触れず矮小化・戯画化して読者を誘導しているのならば知的欺瞞である。
  • 行為とその責任 - おおやにき

    松文館事件について、同社社長の上告が棄却され第二審判決(罰金150万円)が確定したとのこと(Yomiuri Online)。関係各位にはいろいろ思うところがあるだろうが、私としては漫画が反社会的言論をもなしうる十全な表現媒体として国家に公認されたことを喜びたい。 もちろん「表現する側」としては、猥褻表現をすることも言論の自由の一部であって不可侵だとか、言論の自由が一定の法益によって制約される可能性があることを承認しつつもこのケースでは優先されるべき法益が存在しないとか、主張することは許されるだろうと思う。漫画を児童ポルノとして取り締まるべきではないという意見はたとえば後者であり、衝突する相手としての児童の性的自由・自己決定権がないではないかというわけだ。もちろん、基的には「表現を享受する側」であり、ときには「表現される側」であったりする我ら人民がその主張を容れるかどうかはわからないし、ま

  • スラヴォイ・ジジェク『人権と国家』、寛容と自由

    『人権と国家―世界の質をめぐる考祭』 スラヴォイ・ジジェク 岡崎玲子 ジジェクの試論二篇とロング・インタビュー。二目の試論「人権の概念とその変遷」は必読。短いからサクサク読めます(笑)。 インタビューについては色々批判もあるようですし、実際、日語がヘン、ジジェクの言葉を受け止められていない箇所が多々見られる、などの難はあるのですが、岡崎氏の若さと根性、兎にも角にもジジェクのを新書で出した、という功績を考えればお釣りが来るでしょう。 注目すべき点は多すぎるのですが、まずは「寛容さと共存の何が問題なのか」で話題にしたばかりの「寛容」と自由について。 例えば、「共同体により思想や宗教が強制されることは暴力であるが、信仰自体は自由である」といった論があります。わたしたちが暮らしている世界は、建前としてはこうした西洋的多元主義を是とするもので、少なくとも「思想・信条に対する寛容さ」を示すこと

    keya1984
    keya1984 2007/06/05
    「ジェンダーフリー」がまさしくそうだった。
  • 「リベラル派や一般市民がバッシングを黙認している」 - kmizusawaの日記

    ■「リベラル派や一般市民がバッシングを黙認している」 http://watashinim.exblog.jp/4517393/ 非常に耳の痛いご意見である。そういうところも確かにあるっつーか、いちいち反論・批判するのも疲れる→勝手に言わせとく→はびこる、ってのはたしかにあると思う。 ただこういった「自分にとって問題があると思われる勢力がはびこってるのは黙ってる(黙認している)人が多いせい」理論には違和感を覚えるのも正直なところ。世の中常に多いのは何も言わない人たちである。何も言わない人が多いのは同じなのに、特定の言動をとる一派が力を持ったり持たなかったりする。ジェンフリバッシングにしても、以前はバッシング側に対して非難・反論する人が多かったかといえば…あんまり変わってないんじゃないかなあ。黙ってる人がどうかと言うより、匿名で発言できる場など以前より「ヤバイこと」が言いやすいような環境ができ

    keya1984
    keya1984 2007/03/17
    自称リベラルの指導者気取り(および「ついてこない人々への憤り」)への批判。
  • 「自由」に痛めつけられた人間は「自由」のない状況にちらっと憧れる(こともある) - kmizusawaの日記

    二人組みになる必要があるなら、適当に順番で切ってけばいい。http://d.hatena.ne.jp/aozora21/20070315/1173947073そうそう、高校がこれだった。これで、二人組やグループ分けをするときにあぶれるわずらわしさから解放されて、その点に関してだけはたすかった。「学校というソーシャルな場所でなんで人を選ぶわけ?」 たしかにそうだ。だが、当時は、教員が一方的に決めるのは強権的抑圧的なやり方であり、生徒に自由に決めさせるのが「いいこと」という風にたいていの人は考えていた。つうか今もそうか。その高校の教員たちにしても別に学校がソーシャルな場だからということで機械的に割り振っていたわけじゃなくて、生徒に自由にさせるなどけしからんという発想だったと思う。万事そういう校風だったので。校内誌を作ってる人たちがなんだったか(別に政治的でもなんでもない他愛ない内容だったと思う

    keya1984
    keya1984 2007/03/17
    「規律規範無き処に自由は生じず、不羈放任あるのみにては不自由なり」という感じか。→kumizusawaさんは左巻きをほどくとほんとに保守だね。バークや福田恆存とか似合いそう。
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