短編映画撮れそうじゃない? この前水曜日のダウンタウンでやってたのかよ つれえわ 東村アキコの漫画でもやってたのかよ つれえわ
中学生のとき、店などで目にした店員さんの名札を全て記録するという趣味を持っていた。 たまに母に連れられて乗るタクシーの運転手さんの名前、レジを打ってくれるお姉さんの名前、今回のお掃除はわたくしが担当致しましたカードの名前、全てをガラケーのメモ機能に打ち込み続け、スクロールバーは赤ちゃんの小指の爪より短くなった。 達成感を覚えることなく、わたしは淡々と名前を打ち込み続ける。 ある日、00年代の窮屈な容量では収まりきらないほどのコレクションを見た友人は「キモい」と一言つぶやき、わたしは遺伝子配列のように無数に続く見知らぬ名前の連なりをひっそりと削除した。 友人はわたしを監視人のように思ったのかもしれない。 確かにいま思えば狂気の沙汰である。 だが、10年の時を経てわたしはわたしを弁護したい。 わたしはあらゆるものを保存したかったのだ。 * 時間が流れていく、それに伴って何か価値あるものが消えて
名門校出身者たちを目の当たりにして 教育と格差の問題といえば、しばしば話題にのぼるのが東大生の親の年収である。2014年の調査によれば、東大生の育った家庭の半数強が、年収950万円以上の比較的裕福な家庭だという。 ここで問題視されているのは、階級の固定化である。つまり、裕福な家庭は多額の教育費を支払うことができるので、子供は高学歴化する傾向にある。学歴と収入は比例することが多い。結果的に、金持ちの家系はいつまでも金持ちだし、逆に貧乏人はいつまでも貧乏から抜け出せない――という問題だ。 だが、こうした問題提起に出くわすたび、いつも「ある視点」が欠けていると私は感じる。それは都市と地方の格差、地域格差である。 田舎者は、田舎に住んでいるというだけで、想像以上のハンディを背負わされている。 あらかじめ、どんな地域で育ったどんな人物がこの記事を書いているのか、簡単に紹介しておこう。 私は高校時代ま
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