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  • 書斎の窓:社会学はどこからきて、どこへ行くのか?/第5回 社会学における「理解」 | 有斐閣

    東京大学大学院情報学環教授 北田暁大〔Kitada Akihiro〕 龍谷大学社会学部准教授 岸政彦〔Kishi Masahiko〕 岸 先にウェーバーから始まったと言った「第二の話法」はどうですかね。たとえば行為者の話に限定すると、ぼくらが何をやっているかというと、調査対象であるところの行為者あるいは行為者集団の合理性を記述しているわけなんですよね。 北田 そうですね。 岸 社会学のやってきた仕事って、そもそもこういうことだと思っているんです。ウェーバーが行為者の「理解」をするんだと。じゃあ「理解する」ってどういうことかというと、ウェーバーは「行為者っていうのは合理的だ」と。まあ合理性にもいろいろとあるんだけど、「社会学者は行為者の動機を記述しなさい。行為者の行為の動機を記述することが理解なんだ」と。こういうふうに言ってる。要するに「わかるはずだ」。行為者には「理性」があって、ただこれに

    kiku72
    kiku72 2016/05/03
  • 書斎の窓 2015年11月号 『現代社会論――社会学で探る私たちの生き方』( 有斐閣ストゥディア) 浅野智彦

    1 原問題への照準 教科書というのはふつう何らかの「教科」、すなわち通説となった知識の体系に対応するものと考えられている。書も、例えば副題をみれば「社会学で探る」となっているし、執筆者の顔ぶれも社会学とりわけ教育社会学の専門家であることから、社会学の教科書であるといってもあながち間違いではない。だが書は、そのような意味での教科書である前に、もう少し読み手の原的な問題意識に照準しているようにも思われる。 人は、日々の生活を送る中でときおり感じる違和感や居心地の悪さ、ぎこちなさのようなものと、あれこれのやりかたで折り合いをつけている。やりすごすというのは中でも最もありふれた折り合いのつけ方であろう。しかし、そのもやもやとしたものを自分と社会との関係の中におきなおして考えてみる、というやり方もこの社会には用意されている。書が教科書であるとしたら、それはそのような「やり方」を伝えようとしてる

    kiku72
    kiku72 2015/11/12
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