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  • AI AI SINK!: ライトノベルの将来像の一考察  その3

    ライトノベルの将来像の一考察  その3 趣味は? と聞かれたとき、胸を張って「ラノベ」と答えられる人は案外少ないのではないかと思う。理由はやはり、相手にオタク的な目線で見られることや、何か低俗なものでも楽しんでいるように思われることだとおもう。しかしこれも、ライトノベルがまだ若い文化であるという理由に過ぎず、時期がたてば、おのずと傑作も多くなり、世間の認知も深くなって、そういう理不尽な偏見もなくなるだろうと私は考える。 たとえば今や世界が認める日漫画もまた、最初は非常に低俗なものと考えられえていた。戦後まもなくのころは、漫画は貸し屋というのがあって、お金を払って借りて読むものだった。そのときから漫画は子供によくないもの、という意識がもたれていたようだ。貸時代を過ぎても、やはり漫画はよい目で見られていなかった。手塚治虫が常にPTAの連中に目の敵にされ続けていたことを思えば、その証足り

    kim-peace
    kim-peace 2010/10/02
  • AI AI SINK!: ライトノベルの将来像の一考察  その2

    ライトノベルの将来像の一考察  その2 前回に引き続き、ライトノベルの将来像を考えてみる。ライトノベルというジャンルはまだ生まれたての分野である。漫画やアニメのように長い歴史を持っていない。海外からもそれらのような高い評価を受けてもいないし、また翻訳がされたということも、寡聞にして聞かない。だがライトノベルが今後どうなるかについては、他分野の大衆文化がそうであるように、だいたい予想を付けることが出来る。それはライトノベルは中間小説化するだろうということである。中間小説とは、純文学と大衆小説の中間的存在、いわば前者の芸術性と後者の娯楽性の、それぞれを備えた小説である。第二次大戦後に作られた造語であるが、代表的な作家に井上靖がいる。彼はノーベル賞候補にもなった作家だが、彼の作品は純文学と大衆小説の中間的な特性をもっていて、読みやすく、それでいて純文学的なまじめさがある。もっとも中間小説自体はう

    kim-peace
    kim-peace 2010/10/02
  • AI AI SINK!: ライトノベルの将来像の一考察

    ライトノベルの将来像の一考察 ライトノベルという一群の小説類が、屋の棚のいちコーナーを占めるようになったのはいつごろだろうか。明確な時期はいえないが、その発行部数は凄まじい勢いだったといっていい。ライトノベルの棚は、一瞬のうちに現われた。売れるものだから、今ではライトノベルの棚を設けていない屋はなくなったといっていい。 しかし粗製濫造という言葉がある。量と質とは相対しているもので、量が上がれば質は下がり、質が上がるとすれば量は下がる。質量共に上がるということは、文化においてはありえないことだ。もしそうとするならば、今ライトノベルは質的に低い段階にあると考えて差し支えない。私はライトノベルのほとんどが同工異曲の、「キワモノ」であり、才能のない作家は一作品、二作品を発表して登場をやめる。出版社としては、売れる作家、つまり一時的なキワモノしか書けない凡庸な作家より、多数連作する作家を探したい

    kim-peace
    kim-peace 2010/10/01
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