1944年生まれ。「インサイダー」編集長、「ザ・ジャーナル」主幹。02年より早稲田大学客員教授。主な著書に「ジャーナリスティックな地図」(池上彰らと共著)、「沖縄に海兵隊は要らない!」、「いま、なぜ東アジア共同体なのか」(孫崎享らと共著」など。メルマガ「高野孟のザ・ジャーナル」を配信中。
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図は絵師・松井天山によって描かれた『千葉県市川町鳥瞰』を加工し、施設名などを記したもの。松井天山は1927(昭和2)年から1938(昭和13)年までの12年間で千葉県内27市町、29枚の鳥瞰図を描いており、市川町の鳥瞰図は1928(昭和3)年に制作された。図からは昭和初期の景観や人々の生活の様子が窺える。 1885(明治18)年に「陸軍教導団」が置かれた国府台は、終戦までの間『軍隊の町』として発展した。図でも「野戦重砲第七連隊」が大きく描かれるなど、重要性が窺える。「江戸川」に寄り添うように走る「松戸街道」沿いには多くの商店などが立ち並んでいるが、軍隊相手の商売を営む店も多かったという。 図左を流れる「江戸川」沿いに注目すると、東京から銚子方面へと航行する蒸気船の発着所である「東京通船銚子汽船扱所」の桟橋も描かれている。江戸時代から流通を支える重要な役割を果たしてきた「江戸川」の舟運は、1
私のブログではこれまで数々の石造物を取り上げてきましたが、その中には石工(石職人)の名が刻まれているものがあります。 とりわけ、東大阪市内の石造物には「日下村 石工 小平次」と刻まれているものが多くあります。 小平次は江戸時代後期に日下村で石工を営んでいた人物で、姓を「石井」と言い、興法寺の鳥居前にある百度石には「願主日下村石井義行」と刻まれ、石鳥居には「日下村小平次義行」と刻まれている事からも、小平次が石井姓だった事が分ります。 これまで取り上げた、道標や寺社にある石造物の中で小平次作の主なものを上げますと、鳥居では先の興法寺の鳥居が文久元年(1861)布市春日神社の鳥居が宝暦五年(1755)となっています。 燈籠では石切神社の燈籠が文久二年(1819)箕輪八幡神社の燈籠が明治元年(1868)手水鉢では大龍寺の手水鉢が弘化三年(1846)津原神社の手水鉢が嘉永五年(1852)となっていま
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