彼等の思想や哲学には、生きるか死ぬかの根本的な問題があり、それは彼らの生い立ちや生まれ育った風土とも切り離せない。彼等の思想や哲学が難解であり、複雑怪奇、荒唐無稽であるにもかかわらず、人を惹きつけるのは、そこに理由がある。 つまり、廣松渉は哲学研究者であるが、単なる哲学研究者ではない。そこが、廣松渉と廣松渉の弟子を売り物にしている東大教授=熊野純彦と違うところである。熊野純彦は、ハイデガーの『存在と時間』の翻訳でも知られるように、典型的な「哲学研究者」である。それだけのことである。廣松渉は違う。 廣松渉の第一義的な仕事は、哲学のではない。「革命家」である。 廣松渉のマルクス研究は、研究のためのマルクス研究ではない。革命(実践)のためのマルクス研究である。私が、廣松渉と桜井誠を同列に論じるのは、そこである。実践を伴った思想や哲学。それこそ「思想の血肉化」「思想の血肉化」「思想の土着化」である