クーデタというと、私は、真っ先にポール・ヴァレリーの「知的クーデタ」よいう言葉を思い出す。私は、文芸評論家・秋山駿経由で、この「知的クーデタ」という言葉を知ったのだが、この言葉は、長いこと、頭にこびりついて、脳裏から離れなかった。私は、必ずしも歓迎するというわけではないが、この「クーデタ(coup d'État)」というフランス語が好きなのだ。ヴァレリーは、「天才たちは、18、9歳から24歳ぐらいの間に、知的クーデタというものに襲われる」とかなんとか言っている。ホンモノのクーデタが暴力による「国家の改造」であるように、「知的クーデタ」もまた、「人間革命」であり「人間改造」である。トルコのクーデタは失敗に終わったようだが、私の心の奥には、安堵感と同時に、若干の失望感もある。反乱軍の兵士たちは、首謀者を中心に、100人以上が殺害され、多くが逮捕されたという。おそらく、トルコには死刑制度はないと