ドットインストール代表のライフハックブログ
Werner Hamacher, Afformative, Strike: Benjamin’s ‘Critique of Violence’。いろいろ妄想を招き寄せてとても触発的。ベンヤミン「暴力批判論」をおもに扱って、行為とは言語的であると同時に政治的でもあるという角度から、純粋な暴力(神的暴力)=目的なき手段=純粋な媒介=正義の単独性という一連の概念をメシアニズム抜きで接続しつつ、「暴力批判論」におけるゼネストを言語行為論に転じて、「アフォーマティヴ」という鍵概念を練り上げる。法の外部からその批判=限界を導くのではなく、法を支える条件でありながらその成就を宙に吊る力を「アフォーマティヴ」の語によって指し示す。権力としての法に対する不服従の契機をいかに理論化するか、という話にもつながるのだろうけれど、そもそも言語行為論の構えにはパフォーマティヴィティを受動性として捉える発想があるように
・名古屋駅でチャウチャウ犬を散歩させる情景を想像すると、興奮して鼻血が出そうになる。「ちゃうちゃうちゃう?」「ちゃうちゃう!」「ちゃちゃうちゃうちゃうちゃうん?」(以下延々と続く)。 ・記憶喪失ネタというのは、物語を動かす謎、記憶が失われたり戻ったりすることによる関係性の変化、同じ理由による人格の変化、という3要素をひとつのネタにつめ込むことが出来るという点で大変便利。これが三一致の法則というやつです(嘘)。ただ、それらはあくまでも「記憶が戻ったら」の話であって、戻らない記憶喪失や、失われ続ける記憶障害はむしろその三要素を排除し続けることになる。症例として珍しいという理由もあるけれど、記憶喪失に比して記憶障害が描かれづらいのは、そんな理由ではないかと思う。「50回目のファーストキス」「メメント」「博士」あと何かあったかな? ・競馬中継で「テイエムプリキュア」という馬の名前が出てくるたびに、
結婚についての取材がどういうわけか続いた。 先週「週刊SPA」からは「意外と祝福されていない結婚式」という特集の取材を申し込まれる。 少し前の『AERA』に、「ブーケトスは人権侵害だ」という記事が掲載され、「局地的に」大きな話題となったそうである。 ブーケトスの時に独身女を集める「点呼型」、ある一人を呼び出してブーケ贈呈する「名指し型」などがあり、それについて、「独身者をさらし者にする行為」で、「花嫁の自己チュー」「幸せをお裾分けしようという気持ちがおこがましい」というのが「スタンダードな意見」とのこと。 「一生に一度の晴れ舞台に立つ新郎新婦の思いとは裏腹に、列席者が抱いたビミョーな違和感、祝福する気が萎えたエピソードを集めていく」特集の由。 あ、そうですか・・・とやや鼻白んで、ちょっと今回はご容赦くださいとお断りする。 その二日後に今度は『Grazia』から「婚活特集」の取材がある。 こ
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