1912年(明治45年)3月に湧別線常紋隧道として着工された[1]。常紋という地名は、北見側(旧:留辺蘂町)の常呂郡と遠軽側(旧:生田原町)の紋別郡からつけられたものである[1]。 同じ石北本線の石北トンネル(北見峠)同様、人気の全くないこの区間は同線の難所の一つであり、標高約347 m、全長507 mのトンネルを掘るのに36ヶ月を要し、1914年(大正3年)に開通した。 殉職者追悼碑 本トンネルは凄惨なタコ部屋労働で建設されたことでも有名である。本州から集められた「タコ」とよばれた労働者は、わずかな食事と過酷な労働から、1914年10月の工事完了までの間に100人を超える死者を出した[1]。 施工当時、重労働と栄養不足による脚気から労働者は次々と倒れ、倒れた労働者は治療されることもなく暴行を受け、遺体は隧道や現場近くの山林に埋められたといわれる[1]。これについては、山菜取りに来た近隣の