1.まず、ヘーゲルの業績について、a絶対精神・b弁償法・c歴史の法則 a.精神を高める方法を、ドイツ観念論として完成させた 経験できる感覚→科学的に理解する→理性で社会を作る→信仰→『絶対精神』 と、精神を高めて行くステップを、「精神現象学」に記した。 これがそのまま、c世界史の法則 である。 b.精神を高めるステップを、弁証法にした カントの弁証論は、先験的に陥ってしまう誤り、つまり「先験的仮象」による誤りを避けて、真理を認識するための技術だった。 ヘーゲルはそれを、矛盾をあぶり出し、否定する論理 =弁証法に進化させた。 『正→反→合』 『定立→反定立→総合』 『即時→対自→即時かつ対自』というステップであり、 正や定立には、必ず矛盾(反)が含まれる。矛盾(反)をあぶりだし、双方を否定かつ肯定して、総合・統一がなされる。 c.この弁証法は、歴史の法則だ 現代の社会は、矛盾をはらむ。この矛
キルケゴールの代表著作です。この本にある 「死に至る病とは絶望のことである」 という言葉は有名だと思うのですが、ここで言われている死や絶望は 一般的な死や絶望ではありません。 それがこの本の要であり、面白いところです。 まず冒頭に福音書のラザロに関するエピソードが語られます。 ラザロが病に倒れたとき、キリストは言います。 「この病は死に至らず」と。 しかし、ラザロは死んで、その知らせがキリストのもとに来たときに、 キリストは「ラザロは眠っているだけだ。ラザロのところに行こう」と言って、 ラザロの墓に行き、「ラザロ、起きなさい」と呼びかけると、ラザロが墓から でてきた、というものです。 キルケゴールがこの本で語っている死は、キリストが「死に至らず」と言った その「死」です。 そのような死に至るものが、キルケゴールにとっての絶望であり、 キルケゴールに言わせれば、人間の殆どは絶望してるというこ
クリスチャンのための哲学講座 入口 >トップメニュー >キリスト教研究 >諸宗教 >哲学入門 >現ページ 14.死に至る病/ゼーレン・キルケゴール(キェルケゴール) ゼーレン・キルケゴール(発音によってはセーレン・キェルケゴール)は、1813年生まれのデンマークの哲学者にして作家。"実存主義"の先駆者とも言われる。1855年に若くして亡くなる。僕は彼の「愛について」を20代の若き日に読み色々と考えさせられ、そして昨年(※2009年5月)「死に至る病」を読んだ。絶望に陥った人間の心理を、奥深くまで入って考察する歴史的著作である。実存哲学への道を拓いた「死に至る病」から、彼の説く哲学を考えてみたい。 「死に至る病」は、正直に言うと、全体的に文章がまどろっこしい。例えば「自己とは、自己自身と自己との関係性における関係である」…って言うような具合にまどろっこしく、難解に感じられてしまう。し
キルケゴールに関して、 読みながら思ったこと・状態などを書いていく。 2009/12/25 ・いや違うやん。 下で角川って書いたけど筑摩書房だよ。 何かおかしいと思った。 今出てるのは、2,5,6,24巻の4冊かな。 主に『誘惑者の日記』『恐れとおののき』『反復』『死に至る病』 講話も少し入っているみたい。 でももう関係ない話か。 2009/12/1 ・キルケゴール全集について興味深い記述を見つける。 以前に、角川書店だったか、そこから全三十八巻の全集の刊行が予定されていると聞いた。パンフレットでその内容を見てみたら、「あれか=これか」なんかは、白水社の著作集では四冊にわたっておさめられていたのだが、角川では二冊で収められている。この、倍の密度でもって、それで三十八巻なのだ。38×2÷22=3・4545……。三・五倍の量! 日記も三巻にわたって収められている。そして、キルケゴールの本領とい
C 実存主義の思想 a.実存とは何か 実存(existence)とは現実 @本質存在に先だつものとして現実の存在する個々のもの A本来の自己の実現をめざす自覚的存在(人間存在) 「人間は彼がみずからつくろところのものより以外の何ものでもない」 本来の人間性の回復をめざす、真に自由で主体的な生き方を強調 b.キルケゴール @「私はどう生きたらいいのか」という問 客観的真理ではなく私にとっての主体的真理を追求 自己との対話 自分一人の出来事→真の自己になる過程 真の実存を自覚する者=孤独な単独者, A実存の三段階 @美的実存(あれもこれも一感性)の段階 享楽的・感性的生き方→不安・絶望 自己の実存の意義と課題を自覚せず享楽を人生最高の目標とする 享楽主義の空しさを知る A倫理的実存(あれかこれか一理性)の段階 道徳法則を重んじて生きる→挫析・絶望 自己の実
キルケゴールは、ヘーゲルの弁証法を用いながら、まるで正反対の哲学、実存哲学を創始しました。 彼は、「死にいたる病とは、絶望のことだ」と言い、 その絶望によって、それまでの生にあった矛盾があぶり出される。と言った。(36頁) 人とは、精神であり、可能性である。(15頁、46頁) 精神とは、二項の対立を綜合する、可能性である。 精神vs物質、魂vs動物、永遠vs有限。そんな二項の対立を、精神の力で綜合する。綜合する、とは、二項の関係を私が決める、私の精神が、二項を関係づけるのだ。 私vs世界。その関係は、私の精神が決定する。 世界とは、だれにも共通の、客観的な普遍なんかじゃ、絶対にない。 どんな世界か?その世界とどう関わるか?私の精神が、決めるのだ。 ヘーゲルが言うように、歴史の法則が必然なのではない。 私の可能性を、現実化する。私の夢・理想を達成して、可能性を実現する。この信念をこそ、必然と
<その1> 1855年11月11日、深まっていく晩秋のコペンハーゲンで、セーレン・キルケゴール(S. Kierkegaard 1813~1855)は、その短い42年の苦闘の生涯に終わりを告げ、静かに、永遠の安息に入るように、息を引き取った。かって「全デンマークの牧師の敵」と罵られ、揶揄された戦いの人は、今は、まるで与えられた全人生を完全に生き抜いた人のように、穏やかな微笑を浮かべて横たわっている。 彼の最後を看取った甥のルンは「力のことごとくが次第につきていく中で、死が姿を見せてきたのです」と語る。それは、彼にとって、まさに憩いの瞬間であったに違いない。 セーレン・キルケゴールは、父ミカエルが56歳の時に彼の二度目の妻アーネとの間に第7子として生まれた。 「キルケゴール」という名前は、本来、「教会の墓地」とか「教会の領地」とかを意味する名前であり、その名の通り、
両者に共通するのは(当時の)キリスト教批判とニヒリズムの克服でしょうね。 キルケゴールはキリスト教の堕落によって到来するニヒリズム、ニーチェは人間の弱さから未だ神の隷属を抜け出ていないところに押し寄せる近代化(ドイツ観念論が唯物論によって侵食される時代、創造論や目的論的な世界観の否定など)にニヒリズムを見ました。 キルケゴールは実存的な判断によって、あるべき信仰の復活(原始キリスト教への回帰)によるニヒリズムの克服を、ニーチェはニヒリズムの徹底(神の死)による無垢なる生への肯定と、受動的ニヒリズムから能動的ニヒリズムへの昇華(自己超克)へと向かいました。 手法こそ全く逆ですが、その二人が実存主義者として評せられる場合には、ともに人間の意志や生に重きを置いているところからだと思います。 ちなみに、ニーチェは1988年2月19日のゲオルグ・ブランデス(デンマークの評論家、文芸史家)宛の手紙で次
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