■長崎・被爆者発言自粛要請の波紋 http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20060515/mng_____tokuho__000.shtml なんだかなー。この問題、先に報道を見たときは、反左勢力からの圧力? そもそも被爆体験を語るのに中立も何もないだろう、と思ったもんだが、これ読むと、そういうこと以前にお役所にありがちな「なんでもマニュアル体質(しかも心構えに関することをあれこれ言う方向)」の問題なんじゃないかって気がしてきた。 苦情到来→苦情が来るのは問題だ(特に「中立でない」と言われるのは問題だ)→問題解決のためには→苦情がくるような言動をなくせばいい→マニュアルを作って「心がけて」もらおう …これは長崎平和推進協会の人がそう考えたってことじゃなくて、私もお役所の関連部署で仕事をしてて文書とか回ってくるので、なんとなく「こういう感じなんだろうなあ」と
探さないでください。 というのは嘘なのですが。ちょっと精神的にまいっています。書くと長くなるんで愚痴はオシマイ。 一昨日のエントリーはごめんなさい、ごめんなさい。メタでネタをベタに書いてしまって、結局オレの考えなんて所詮はお釈迦様というか村長の掌の上じゃんという事を知ったというか、掌メソッドから抜ける方法はないんだろうなあと思ったり思わなかったりどっちなんだよ。という話を延々と書きます。纏まっていませんが、その理由もエントリを読んでくださればおわかりになると思います。 敢えて引用しませんけれどR30さんが書いた記事とかを読んで「web2.0って結局何を目指しているんだろうなあ」と改めて思いました。ラジオ公開視聴〜オフ会〜揉み事という一連の流れ、それを馴れ合いだとする空気感、マジなのかネタなのか良くわからないものすら「見せてしまう」感覚と、泉さんがインタビューを無編集でブログに書いてしまって
それはテレビや新聞の既得権益をネットが壊すからだ! そしてボクは、ネットがそのようになることを望むよ!
「オタク女子研究」とか「文化系女子」とか、いろいろ話題になってるのを見て思ったんだけど、なんかさー、どうしてなんでも「モテ問題」に回収しちゃうんですかね。モテるための手段、とか、実はモテてる、とか、モテはどうでもいいんだ、とか。「文化系女子」にしても「オタク女子」にしても、そもそも非常におおざっぱな(例えば雑誌でとりあげるときの便宜上の)くくりでしかなかったものが、いつの間にかカテゴリーだけが一人歩きさせられて、何か「文化系女子」だとか「オタク女子」だとか言う名の特殊種族が周囲のものとは無関係に村を作って存在していて互いに競い合ってる(主にモテ方面を)といったイメージにされてしまってないか? それ以外の人たち(特に男性)の目から見てどう見えるか、みたいな話になってないか? 希少動物の観賞とか研究みたいになってないか?たしかにカテゴライズして語るというのは面白いし手軽にできる。私もうっかりや
文学や漫画といった書籍、音楽、映画、美術、演劇など文化全般を愛好する女性を指す。アウトドアではなく、インドアな趣味を持つ女性ともいえる。単に各文化を鑑賞しているだけではなく、その文化に対して強い思い入れを持っているかどうかがポイントとなる。 もともとは学校のクラブなどでの分類で使われる「文化系」*1と「女子」を組み合わせたと思われる。なぜ「女子」という表記が選ばれたのかは、学校的価値観の延長、また女性性を薄めているなどが考えられる。 ネットなどで見かけるジャーゴンだったが、『ユリイカ』2005年11月号での「文化系女子特集」でまとまった形で提示された。『ユリイカ』では、オタク女子からジャニオタ、文学、お笑い、メガネ男子など様々なジャンルの文化を愛好する女性による文章が掲載されている。 その発端は下記の通り。 http://d.hatena.ne.jp/./Tigerlily/2006043
■[Hiki] ひきこもりは精神疾患じゃないから。 『社会的ひきこもり』(PHP新書)の著者で,精神科医斎藤環氏の〔ひきこもりの―編集者〕定義は『6ヶ月以上社会参加せずに自宅にひきこもり,ほかの精神障害を第一の原因としないもの』としている.(略)『ほかの精神障害を第一の原因としない』としているのだから,『ひきこもりは精神病ではない』というわれわれの主張が間違っていないのは言うまでもない. http://www.ns-kansai.org/nsk/ronso/nishijima2.htm http://www.ns-kansai.org/nsk/tsushin/tsushin-27.htm ひきこもりの場合は「精神疾患」ではないから、処遇の枠組みがさらに難しい。 id:ueyamakzk:20060509:p1 ひきこもり業界の人は「ひきこもりは精神疾患ではない」*1というプロパガンダを好む
■特集:憲法記念日に考える(その3) 「老齢」「母子」募る危機感 http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/feature/news/20060503ddm010010095000c.html ときどき、格差社会と言っても日本は海外の貧しい国に比べれば恵まれている、「貧困」は大げさだというようなことを言う人がいるが、服も安物の下着しか買えず、食べたいものも思うように食べられない(その日の特売品でメニューが決まってしまう)、それでも貯金は月100円以下、というような暮らしがずっと続くような境遇が「貧困」でなくていったいなんだ? しかもまだこれ以下になる不安におびえないとならないとは。 たしかに家もなく社会保障の制度もろくになく物乞いをするしか生きていくすべがない、というような暮らしに比べれば「恵まれている」のかもしれない。でも、そんな「最低限の生活」の保障レベル
『東京新聞』の匿名コラム「大波小波」で取り上げられていたと新曜社からファックスが送られてきていた。2008年9月19日付夕刊、タイトルは「盗作貧乏」で筆名は「望遠鏡」。おおようやく取り上げてくれたか。いまどき「大波小波」という固有名詞があんだけ出てくる本ないんだから、もうちょっと早く頼むぜー、と喜んだのだが……。栗原裕一郎の『〈盗作〉の文学史』(新曜社)は話題になるだけのものをもっているが、隙間がないわけではない。たとえば数年前片岡直子が指摘した小池昌代の〈盗作〉問題などには触れていない。小池が文壇の寵児であったためメディアが対応に困り、ほとんど記事が出なかったせいであろう。片岡のそれ、あえてスルーしたんですよ。『週刊文春』がスクープした『恋空』の盗作疑惑なんかと同類で、しょうもなさすぎるので。望遠鏡氏は、あれをまともに取り合うべきものだと思っているわけですか。片岡の問題の文章は、「インス
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