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比較文学に関するkotobukuのブックマーク (4)

  • 16世紀以降の日本と東アジアのキリシタン文学とその影響度をめぐる総合的比較研究

    以下の内容は、平成17年から19年までの3年間、科学研究費補助金を受けて行われた 「16世紀以降の日と東アジアのキリシタン文学と その影響度をめぐる総合的比較研究」 の研究成果をまとめた報告書の一部を編集したものです。 目  次 1 研究の目的 2−1 研究経緯の概要・調査編 2−2 研究経緯の概要・国際会議編 3 総括的展望 研究の目的と経緯及び総括的展望 1 研究の目的 研究は「16世紀以降の日と東アジアのキリシタン文学とその影響度をめぐる総合的比較研究」と題して三年間実施したものである。当初の目的は以下の通りであった。 @ 日・東アジアをめぐるキリシタン文学とその影響度を示す資料群の範疇の確定 A 上記対象の総合的な資料調査収集による実体把握 B 上記にもとづく総合目録のデータベース化と資料集の公刊、国際会議の開催による 成果の公開 近年注目される日と東アジ

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    kotobuku 2010/10/20
    16世紀以降の日本と東アジアのキリシタン文学とその影響度をめぐる総合的比較研究
  • 明智光秀と天皇制 - jun-jun1965の日記

    (活字化のため削除) - 某社会学者から、社会学では日文化論とか日人論はイデオロギーだということになっていて批判されると言ってきたので、じゃあ上野千鶴子はなんでやっているのかと問うたら返事がなかった。ああ社会学よ、この二十年は、上野と宮台によって君らの信頼が失墜したのだ。そして比較文学の信頼は佐伯さんと平川上皇によって失墜させられたのだ。 - 杉良夫らの日人論批判はどうか、とも問われたのだが、杉とロス・マオアの『日人は「日的」か』を見ると、どうも彼らは、日人論の中から別の日人論を作りだそうとしているようである。たとえば11章では、日人は写真を撮るのが好きで日記をつけるのが好きだ、と述べているが、それは当なのか。それにこのに関して言うと、現代日ばかりを論じていて、歴史的展望がない。まあ、ほかのも見てみよう。

    明智光秀と天皇制 - jun-jun1965の日記
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    kotobuku 2010/06/13
    光秀が、信長が天皇をつぶそうとしていると考えて謀叛を起こしたというのは、半村良『産霊山秘録』以来有名な説
  • 森田草平伝 - jun-jun1965の日記

    新藤兼人脚映画「村八分」はDVDになっているのだが、北星というところに直接申し込むと入手できるらしい。 - 比較文学会とか東大比較文学とかが衰退するとしてもそれは私の立場から言えば仕方のないことである。しかしそれらの構成員で自分のウェブサイトを持っているのって私とヨコタ村上くらいしか思いつかないってもうそのこと自体がダメな証拠ではないかと思う。 - 内田百輭「実説艸平記」が、ちくま文庫『間抜けの実在に関する文献』に入っていたので読んだ。1950年9月『小説新潮』に発表、51年新潮社から単行であるが実に面白い。既に没した森田草平の奇行の数々が描かれている。草平は漱石門下の古株で百輭は和辻哲郎と同年の後輩弟子である。のち草平はやはり漱石門下の野上豊一郎のひきで法政大学に勤めて百輭も招かれたが、のち野上派と森田派の抗争が起きていったん野上派をクビにして百輭もクビになるが、結局戻ってきて草平

    森田草平伝 - jun-jun1965の日記
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    kotobuku 2010/06/09
    内田百閒「実説艸平記」が、ちくま文庫『間抜けの実在に関する文献』に入っていたので読んだ。百閒が「大人のおもちゃ」の広告を見て草平と一緒に買いに行ったり、何ともいい。
  • 「便所めし」と高橋和巳 - jun-jun1965の日記

    『すばる』7月号に榎泰子さんが「便所めし」のことを書いている。もちろん榎さんは「便所めし」などという言葉は使っていないが、榎さんも、一人で事をするのが苦手だという。ちょっと意外である。 そこへ、高橋和巳の『悲の器』の中で、学長室で学長が一人かけうどんをすすっている情景を、主人公が、排泄行為のようだと評する個所が引用される。 榎さんは、『悲の器』が、自分が通っていた大学を思わせる学内での、と書いているが、高橋は京大だから違うのではないか。それと、『悲の器』が学生時代に話題になったというのにちょっと驚いた。榎さんは1968年生で、88年頃東大国文科に進んだはずで、高橋和巳なんて遠い昔の人で、一般的には話題になるようなではなかった。 実は高橋和巳というのは、当時から一部では通俗小説だと言われていたのだが、高橋自身が全共闘シンパだったせいで、純文学扱いを受けていたのである。榎さんが

    「便所めし」と高橋和巳 - jun-jun1965の日記
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    kotobuku 2010/06/09
    あまり日本文化論を悪く言うと世間はますます比較文学比較文化を胡散臭いと思うとか、私がどういう状況にあるかぜんっぜん理解していない。
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