赤福9代目当主、裕康の長男として生まれた。生後9か月にして出征していた父親を戦争で失い当主となるが、実際は8代当主の未亡人である濵田ますが切り盛りし、赤福が1954年に企業化した際、ますが企業としての赤福初代社長に就任している。 慶應義塾大学経済学部卒業後、1960年4月に赤福入社。同年9月に取締役専務となり、1968年11月、ますの後継として代表取締役社長となった。 赤福は強気の駆け引きで知られていた。1960年、入社したばかりの益嗣は近鉄宇治山田駅での販売交渉を行った。赤福の呈示した駅へのリベートは10%で、ライバル企業の呈示した27%より遙かに低いものだった。益嗣は「3倍売る」と強調したが、駅側とは折り合わなかった。しかしますは「それで良い。商いは一度断らんといかんこともある。神さんがついているから、ジタバタするな」と助言した。交渉は半年にも及んだが、ついに駅側は年15万円の“冥加金