日下部 金兵衛(くさかべ きんべえ、天保12年10月12日[1] / 同年10月15日[2] (1841年11月24日 / 同年11月27日) - 昭和7年4月19日(1932年4月19日[3])/ 昭和9年4月19日(1934年4月19日[2]))は日本の写真家。顧客に外国人が多かったため、仕事上では名字の日下部よりも、発音しやすい名前の金兵衛を用いることが多かった。甲斐国(山梨県)出身。 甲斐国の甲府町(現・山梨県甲府市)に生まれる[1]。1863年(文久3年)頃から、横浜のフェリーチェ・ベアトのスタジオで写真の着色技師として働き始めた。1867年(慶応3年)にはベアトの弟子として上海に撮影に出かけている。ベアトが写真の世界から引退すると、ベアトの弟子でもあったライムント・フォン・シュティルフリートの下で働いた。 1881年(明治13年)頃に独立し、横浜の弁天通に写真スタジオ「金幣写真