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ブックマーク / pikarrr.hatenadiary.org (2)

  • ネットの「群衆の叡智」の可能性とはなにか その1 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    群衆の叡智と単なる群衆心理 ロングテールとともに、昨年のキーワードとなったのが、ニューヨーク在住のコラムニストであるジェームズ・スロウィッキー氏ののタイトル「The Wisdom of Crowds(群衆の叡智:の邦訳は、『「みんなの意見」は案外正しい』)」である。 そんな群衆の叡智の壮大な実験に取り組んでいるのが、サンフランシスコにある米ディグ(Digg)だ。・・・情報が溢れる今の世の中で、自分が見たり聞いたりする情報(メディア)は、わずかな数の記者や編集者に依存している。そんなメディアを「民主化」しようというのが同社の社是だ。 インターネット上にあるメディアをすべて民主化し、ランク付けしようとするディグ。何かに似ていないだろうか。そう、グーグルの検索結果表示である。・・・グーグルは、ページランクと呼ばれる手法で、リンクされたページの質と量、リンクしたページの内容などを数値化し、膨大

    ネットの「群衆の叡智」の可能性とはなにか その1 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • ブログはなぜ書かれるのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    ブログは必ず読まれる? ブログを含めたネット上のパーソナルなテクストは、報酬がないにもかかわらず、精力的に製作されている。これを支えているのが、「見られている」ということである。ネットは公開され、だれでもみることできるという技術的な可能性が、「誰かが見ている」という希望的可能性を増幅させる。そして「誰かが見ている」可能性は、技術的な可能性を越えていく。それはかつて「ネットに公開すれば、世界中の人がみることができる。」という神話を捏造した。いまはその神話は陳腐化したが、それでもブロガーは神話を捏造している。それは「私がみられたいと思う人が見ている」ということである。 これはブログだけのことではない。行為を含めた広い意味でのコミュニケーションでは、だれもが「見られたい人」が見ているように捏造している。たとえば、誰かと話をしていても、それは目の前の話し相手と話しながら、「見られたい人」に向け発信

    ブログはなぜ書かれるのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
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