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ブックマーク / call-of-history.com (4)

  • 「鎌倉を読み解く―中世都市の内と外」秋山哲雄 著

    鎌倉幕府の成立が「イイクニ(1192)つくろう鎌倉幕府」ではなくなったという話は随分と広く知られるようになってきた。しかし、もう一つ鎌倉幕府の成立に関して、大きく見直されていることがあることはあまり知られていないのではないか。それは、「三方を山に囲まれた天然の要害ゆえに頼朝は鎌倉を拠地とした」という通説が近年否定されてきている、ということである。 まず、「序章 都市鎌倉研究の現在」では通説であった武家の都としての鎌倉城塞都市説が近年の研究でどのようにして否定され克服されてきたかという研究史がまとめられ、続けて都城のような都市計画の存在も否定されつつある研究状況が概観された上で、成立期の鎌倉の評価をめぐる様々な論考が紹介される。また、鎌倉の都市域の解明、鎌倉の葬送に関する考古学的研究の成果と今後の課題、鎌倉と外部のつながりなど、その章題の通り都市鎌倉研究の現在が見通せる。 じつは鎌倉には、

    「鎌倉を読み解く―中世都市の内と外」秋山哲雄 著
  • 「薩摩島津氏の琉球侵攻」(1609年)まとめ

    1609年三月、島津軍が琉球王国に侵攻し奄美大島、徳之島、沖永良部島、そして沖縄島と次々攻略。琉球王国軍の抵抗むなしく、四月四日、首里城が陥落、尚寧王は降伏し、独立国家琉球王国は、引き続き中国からの冊封体制下にありつつ、徳川幕藩体制の中に組み込まれる両属体制時代に入ることとなった。「薩摩島津氏の琉球侵攻あるいは琉球出兵」として知られるこの事件について、簡単にまとめ。 主に上里隆史著「琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻」に従いつつ、記事末に挙げた琉球史関連の書籍・論文を参照。年号表記は和暦、中国暦、西暦を併記すべきところだが、冗長になるので一律西暦表記している。(参考、日:慶長十四年=明・琉球:万暦三十七年=西暦1609年) 徳川政権の事情秀吉死後、実権を握った徳川家康にとって最大の懸案が秀吉による朝鮮出兵の戦後処理だった。1599年の倭寇禁止令で東シナ海の治安回復に取り組む姿勢をアピー

    「薩摩島津氏の琉球侵攻」(1609年)まとめ
  • 「田沼意次―御不審を蒙ること、身に覚えなし」藤田 覚 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    十八世紀後半、江戸幕府の権力を掌握して様々な政策を断行し、通称田沼時代と呼ばれる一時代を築いた老中田沼意次(1719-1788)の評伝である。意次失脚後から現代まで脈々と続く悪徳政治家のイメージや、近年そのイメージへのカウンターとして登場した清廉な政治家としてのイメージのいずれからも距離を置いた、十八世紀後半という時代背景の中で生き、また時代をつくった田沼意次像を描いている。 田沼は、すくなくとも賄賂を受けいれている例もあり清廉潔白とは言い難いし、脇の甘さも目立つようだが、当時の多くの政治家たちも同様でもあり、特段悪質という訳ではないようだ。清廉潔白と呼ばれているような人――たとえばザ・清廉潔白な松平定信も――でも、大なり小なり贈収賄的なやりとりを行っている。そして、田沼の人柄の指摘が面白い。 当時の権力者たちに通じる特徴として、「権勢を誇らず」という点があるらしい。意次に限らず、当時の権

    「田沼意次―御不審を蒙ること、身に覚えなし」藤田 覚 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • 「真田三代 幸綱・昌幸・信繁の史実に迫る」平山 優 著

    2016年のNHK大河ドラマが真田幸村の生涯を描いた「真田丸」という作品になるそうだ。よく知られているように幸村は後世、創作作品で名付けられた通称で、存命中幸村と名乗ったことはなく信繁が正しい。しかし、江戸時代の軍記物や講談から文学作品、映画・ドラマ、さらに最近ではゲームまで繰り返し真田幸村として登場しており、戦国武将の中でも屈指の知名度を誇る人物だろう。僕も子供のころから様々な作品を通して真田幸村になじんできた。 幸村と信繁、創作上の悲劇の英雄と歴史上の一人の戦国武将との間には少なからぬ違いがある。このイメージと実態との差は信繁に限らず、真田一族全体にいえるもので、その違いを丁寧に解きほぐし、あるいは切り分ける作業が、戦国時代の真田氏研究の大きなテーマとなってきた。書はその真田氏研究の代表的な研究者である著者による真田幸綱(一徳斎幸隆)・昌幸・信繁の三代記である。来であれば三代目は信

    「真田三代 幸綱・昌幸・信繁の史実に迫る」平山 優 著
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