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2013年8月28日のブックマーク (7件)

  • 篆書でGO!

    1 天、呉、首、墳、龍、子 1999.04.04 2 左、右、四、五、馬、孫 1999.08.09 3 山、回、家、魚 2000.02.13 4 犠、冊、龜 2000.02.13 5 集、雨、車、面、異 2000.10.09 6 伐、競、虎、心、爵 2001.01.29 「篆書」は「てんしょ」と読みます。篆書というのは簡単に言うと印鑑につかわれるような昔の書体です。皆さまも既に「曉に死す」のロゴを御覧になってると思いますが、あのような字です。 これが調べてみると奥が深いもので、図書館などで篆書の字典を読み漁るとへんな字形がわんさか見つかります。それをここで紹介しようというこころみです。じつは篆書にも大篆とか小篆とか金石とかいろいろあるようですが、ここではあまりこだわらないです。 ちなみにここには特異な字形を集めておりますので、もし自分の印鑑をつくりたいなどの理由で「ふつうの」篆書を知りたい

    kuuka2h
    kuuka2h 2013/08/28
  • 右の字について

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    kuuka2h 2013/08/28
  • 篆書でGO! 6

    まさか古代中国にバズーカ砲*1があるとは、いくらなんでも思いもよらなかったのですが、「伐(敵をうつ)」という字の意味には非常に合った字形と言えましょう。

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    kuuka2h 2013/08/28
  • 心 - ウィクショナリー日本語版

    漢字[編集] 心 部首: 心 + 0 画 総画: 4画 異体字 : 腎(の代用字) 筆順 : 字源[編集] 象形。心臓を象る[字源 1]。「こころ」を意味する漢語{心 /*səm/}を表す字。 ↑ 于省吾 「釈心」 『甲骨文字釈林』 中華書局、1979年、361-367頁。 張世超、孫凌安、金国泰、馬如森 『金文形義通解』 中文出版社、1996年、2519-2520頁。 季旭昇撰 『説文新証』 芸文印書館、2014年、787頁。 林志強等評注 『《文源》評注』 中国社会科学出版社、2017年、27頁。 心地(ここち) 心温(こころあたた)まる 心当(こころあ)たり 心意気(こころいき) 心得(こころえ) 心変(こころが)わり 心遣(こころづか)い 心付(こころづ)け 心残(こころのこ)り 心細(こころぼそ)い 心持(こころま)ち 心許(こころもと)ない 心意(しんい) 心音(しんおん) 心

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    kuuka2h 2013/08/28
  • @PAGESご利用ガイド - 13/08/28 【お詫び】ユーザ情報流失に関するお知らせ

    いつも@pagesをご利用頂きありがとうございます。 この度、ユーザ用の管理情報の流出が確認されました。 ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。 流出した個人情報およびセキュリティ上重大と考える範囲内は以下のとおりです。 ※流出内容 ユーザ名 パスワード メールアドレス 登録時のIP 登録時のユーザエージェント ※影響範囲 2013年2月27日午後3時以前に登録したユーザ全員 なお、クレジット番号、住所、氏名、電話番号につきましては 管理情報として登録されておりませんので、流出はございません。 緊急的措置として全ユーザのパスワードを強制リセットさせていただいております。 お手数ですが、パスワードの変更お願いします。 [[パスワード再発行フォームはこちら>http://atpages.jp/admin/forgetpw.php]] 件につきましては多大なご迷惑をおかけし、まことに申し訳

    kuuka2h
    kuuka2h 2013/08/28
  • 阿倍仲麻呂 - Wikipedia

    阿倍仲麻呂(『前賢故実』より) 阿倍 仲麻呂[1](あべ の なかまろ、文武天皇2年〈698年〉[2] - 宝亀元年〈770年〉1月)は、奈良時代の遣唐留学生。姓は朝臣。筑紫大宰帥・阿倍比羅夫の孫。中務大輔・阿倍船守の長男[3]。弟に阿倍帯麻呂がいる。 唐名を「朝衡[4]/晁衡」(ちょうこう)とする。唐で国家の試験に合格または推挙で登用され[5]唐朝において諸官を歴任して高官に登ったが、日への帰国を果たせずに唐で客死した。 なお小倉百人一首では安倍仲麿と表記される。 生涯[編集] 阿倍仲麻呂(百人一首より) 文武天皇2年(698年)阿倍船守の長男として大和国に生まれ、若くして学才を謳われた。霊亀3年・養老元年(717年)多治比県守が率いる第9次[6]遣唐使に同行して唐の都・長安に留学する。同次の留学生には吉備真備や玄昉、井真成がいた[7]。 唐の太学で学び科挙に合格または推挙で登用され、

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    kuuka2h 2013/08/28
  • 白川伯王家 - Wikipedia

    白川伯王家(しらかわはくおうけ)、又は白川家(しらかわけ)とは花山天皇の皇孫の延信王(清仁親王の王子)から始まり、古代からの神祇官に伝えられた伝統を受け継いだ公家・華族だった家である。公家としての家格は半家、華族としての家格は子爵家だった[1]。皇室の祭祀を司っていた伯家神道(白川流神道)の家元。 白川家(しらかわけ)は花山源氏を出自とする堂上源氏である。花山天皇の皇孫の延信王(のぶざねおう)が源姓を賜り臣籍降下して神祇官の長官である神祇伯に任官されて以降、その子孫が神祇伯を世襲するようになったために「伯家」とも、また、神祇伯に就任してからは王氏に復するのが慣例であったことから「白川王家」とも呼ばれた。 白川家の特徴は、神祇伯の世襲と、神祇伯就任とともに「王」を名乗ったことである。「王」の身位は天皇との血縁関係で決まり、来は官職に付随する性質のものではない[注釈 1]。非皇族でありながら

    白川伯王家 - Wikipedia
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    kuuka2h 2013/08/28